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2019年3月17日日曜日

アベについて(5)

『歴史徒然』(Rekishi Tsuredure) http://blog.livedoor.jp/matmkanehara10/

『歴史徒然』(History Tsuredure) https://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara
『歴史創世』(Rekishi Sousei) https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/
『歴史再考』(Rekishi Saikou)https://momo-momo-matmkanehara-momo.blogspot.com/
『至福の時:イキガイ』http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/56770049.html
『猶本光サポーターズサイト』http://hikaru-naomoto.net/
『浦和レッズレディース』http://www.urawa-reds.co.jp/ladies/


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《アベについて》

※出典:著者・加治木義博

 ◎大学院講義録26

 <秦王国は下関。
      俀(ダイ)国は四国以外にはありえない>抜粋

 ここで大学院講義録26で始めて
 確認できた五彩圏時代の我が国を、
 『隋書』を再読してもう一度振り返って見よう。

 煬帝(ヨウダイ)は608年に
 裴輩世清を我が国に派遣して
 八幡浜で俀王に会わせた。

 コースは
 都斯麻(対馬)国、
 一支(壱岐)国、
 竹斯(筑紫)国で、
 その東に秦王国があり、
 「竹斯より東は皆、俀国に附庸する」
 と書いている。

 秦王国以東が俀国の仲間で、
 それ以外は違うことを、
 わざわざ書いているのである。

 秦王国はシムノオ=シモノだから下関。

 そこから十余国経て達した海岸に上陸した。

 そこに俀王の迎え
 阿輩臺(アフ・トイ・阿部鳥)が
 儀杖を引き連れて出迎えたという。

 彼の船は博多から関門海峡を通って
 周防灘に入り、
 海岸伝いに 宇部・防府・徳山・光・上関・
 柳井・屋代島・中島・松山・伊予
   の十余国を経て、
 長浜(難ガ波国(ながはま))海岸へ
 上陸したのである。

 壱岐や下関が一国だった都市国家時代なのだ。

 裴世清の書く「国」は
 幕末の60余州のような大きなものではない。

 仮にそうだとすれば下関以後、
 これまで上陸海岸とされてきた
 大阪市の難波までは、
 周防・安芸・備後・備中・備前・播磨の
 6カ国しかない。

 幕末でも船旅の旅程は
 輩世清の時とほとんど変わらない。

 裴世清が訪れた俀国は、
 東西五月行、南北三月行の
 四国以外には存在しえない。

 近畿は東西南北同距離で、地形も違い、
 海も全くない奈良に俀国があったとは、
 空想することさえ難しい。

 ◎大学院講義録27

 <日本人の権威と誇りを踏みにじる
      マンガ本対策>抜粋

 ご覧の通り、
 寓話を史実と勘違いした昔の神官が、
 それを利用して建てた祠に、
 勿体づけに考案した由緒(ゆいしょ)を
 鵜呑みにして、
 大国主像を組み立てたものに過ぎない。

 本当の史実である国家の経倫を語る比喩は、
 完全にお伽話になり下がって、
 子供向きのマンガ本程度の
 幼稚さにまで下落してしまっている。

 これでは
 ラフカディオ・ハーンが紹介した
 明治以前の出雲観と少しも違わない。

 それを今になって権威ありげに出版物にして、
 欧米の蔑笑をさらに強めるというのは、
 全く時代をわきまえない
 反逆行為だというしかない。

 歴史をオモチャにするマンガ作家とともに、
 売れればいいという
 卑しい心理と倫理感の欠如が、
 我が国の子供たちの未来を
 真っ暗にしているのである。

 私たちはそれを傍観してはいられない。

 既に『記・紀』がどんな書物であり、
 その内容が
 高度の文明が生み出した知性の結晶であり、
 世界に誇るべき
 最高の理想を実現しようとする
 教科書だったことを確かめた。
 
 それを少しも速く
 国民の教養にするため積極的に行動して、
 正しい真の祖国観を、
 全国民の教養にまで
 高めなければならないのである。

 これについては本学の
 「安部忠宏」山陰支会長と、
 正会員・中庸学研究所長の宮川謙二先生とが、
 良い具体策をご検討になっている。

 なにとぞ諸先生方もご協力の程を、
 心からお願い申し上げたい。

 <安部氏が阿毎(アベ)前天皇=
      俀国(ダイこく)のダイコク様>・抜粋

 『日本書紀』は
 大化改新の敗者を蘇我入鹿だとしているが、
 その真相はもう御存知である。

 改新前には
 <ダイオウ>=俀王は愛媛県の宇和にいた。
 聖徳太子の<ウワノミヤ>=
 <上の宮>はそれを記録している。

 俀王の姓は「阿毎」だった。

 この毎の字の隋の発音は「ベ」で、
 沖縄語では「パィ」。

 <裴世清>の耳には
     「アベ」と聞こえたのである。

 ところが
 大隅語では毎は「マイ」、
 薩摩語では「メ」と発音するから
 「阿毎」は<アメ>。

 天を<アメ>と読ませる
 『日本書紀』は
 薩摩語で書かれていることがわかる。

 『記・紀』に登場する「天」の名乗りは、
 『隋書』が書く通り皇族を示す名乗りである。

 <安部>・<阿部>と書く当て字は
 <裴世清>が聞いた発音通りである。
 いま出雲におられる安部さんたちは、
 まぎれもなく
 俀国様=<大国主>の尊の直系で本家なのだ。

 『三国史記』は入鹿を泉蓋蘇文と書く。

 泉は出水(イズン)、
 それが島根県へ行ったから
 出雲(イズン)という国名が生まれたのである。

 生きていた入鹿が出雲へ移った
   <大国主>なのだ。

 これが『日本書紀』の書く『国譲り』の中核。

 最も書きたくて、
 しかも書けなかった史実の真相なのである。

 だから天智天皇は入鹿を殺していない。

 彼は建国以来の天皇憲章を守っている。

 <泉蓋蘇文は高句麗の支配者>で
 <天智天皇は日本国十半島新羅の支配者>
   である。

 <斉明天皇は倭国の支配者>で
 山奥の飛鳥に逃げていた。

 これが
 「倭国と日本」統一直前の
 真実の婆だったのである。

 ◎大学院講義録40

 <中国統一の礎を築いたのも我が国の同祖>抜粋

 また倭人や馬韓や辰韓が入っている
 「東夷」も烏丸同様、地名や姓になっている。

 東井・藤井・藤居・筒井・遠井・稲井
 などがそれで、
 フジイやツツイ、イナイと
   読み方を変えたものも、
 これを見ると、
 本来は東夷に対する当て字だったことがわかる。

 居住地に「スク」 という宿名を残した
 チュクチ族は筑紫族。

 いま北シベリア最大の港湾都市に、
 そのまま「チクシ」の名を残している。

 筑紫は九州最大の古代先進国で、
 継体天皇に破れた磐井も
 祝氏=シュクシ=チクシで赤の他人ではない。

 今なお地名、姓とも健在であるが、
 天智天皇が阿部比羅夫当時、
 征伐した記事が『日本書紀』にあるから、
 そのとき北方への大移動があったのである。

 そんな事件は別にして。

 これらの姓をもつ方々をいま、
 日本人ではないと思う人はないように、

 神名になった人たちの国名も
 我が国から移動していった人々のもので
 血縁に変わりはない。

 みな我が国のクシャトリヤ=天皇=軍君であり、
 イサナキの尊たちだったのである。

 彼等は古くは殷商帝国から建国して行き、
 中国を治めてきたのである。

 だからその血縁を証明する一章が、
 「倭人章」に特記されているのは見落とせない。

 「其俗 挙事行来 有所云為 
  灼骨而ト 以占吉凶」

 倭人は、
 何かを行う時には獣の骨を焼いて
 罅(ひび)割れの様子を見て吉凶を占う。

 これは「令亀の法のようだ」という記事である。

 ◎篤姫を生んだ鹿児島こそ
  スメル八千年帝国の理想郷だった

 <なぜ日本の涯の田舎娘が大御臺所にまで>抜粋

 西郷隆盛の実像は
 一般に想像されているものとはずいぶん違う。

 ことに「征韓論」で
 侵略主義者の汚名を着せられていることは、
 あまりにも事実と違い過ぎて、
 必ず是正して名誉挽回を計らねばならない。

 私(加治木義博)は
 それを周囲から詳しく聞かされて育ったので、
 誰よりよく知っている。

 機会をつくって必ず書こうと思っていた。

 宮尾さんは鹿児島まで足を運び
 資料を整えて書いておられるが、
 斉彬なきあと、由羅派が絶対的な力をもち、
 嶋津久光が事実上、家長になったために、
 斉彬派の重要な史料は、大半が失われてしまい、
 資料館などに保存されている遺物は大きく偏り、
 多くの事実がわからなかったとみるしかない。

 そのせいか、
 ドラマ前半の準主役ともいうべき
 肝付(きもつき)尚五郎=
 小松帯刀(たてわき)も、
 原著には全く登場しない。

 しかし、
 私(加治木義博)は
 この本で原作者やドラマの脚色を
 責めようとは思わない。

 嶋津家の子孫も不明になっている現在、
 面倒な歴史を小説化し、
 またあれだけ面白く展開して、
 すごい数の視聴者を集めたのは、
 さすがに宮尾先生であり、
 大NHKのスタッフだと激賞したい。
 人の一生が見えると、
 それと比べて自分の一生も考える。

 歴史の鮮やかな祖先がいると、
 批判もし、反省もする。

 それを記憶が確かな今、
 真実を知りたい方々のために
 書いておこうと思った。

 それは、お家騒動のために抹消された、
 一般には未知の人たちと史実に満ちている。

 例えば、篤姫輿入れを実現させた
 老中・阿部正弘と斉彬の、
 さらに深い交わりも詳細に
 我が家に伝わっているし、
 よく知られているはずの
 西郷隆盛の実話でも面白いものが、
 まだまだたくさんある。

 鹿児島には、さらに幕末だけでなく、
 卑弥呼以前からの意外で巨大な歴史と、
 古代天皇家の史実が充満している。

 <一気に解けた、謎の天皇家の出身>抜粋

 今、
 この「大人・弥五郎」そっくりの行事が、
 インドのヒンヅウ(シンドウ)教徒たちによって
 花々しく、
 盛大な年中行事として行なわれているから、
 これまでの考え方では、
 それが我が国に伝えられたものだと思いがちである。

 しかし我が国の景行天皇は卑弥呼の時代、
 3世紀の人で、
 ヒンヅウ教は圧倒的に
   強力な仏教に対抗するため、
 9世紀に多教派が合同して、
 仏教の行事などを真似て、
 いま見るような行事を行なうようになったので、
 大隅のほうがずっと先である。

 式の終りに大神像を焼くが、
 それは「大神を討つ」ことだから、
 弥五郎を「討った」という解釈に合う。

 これは大隅で
 「ウッタラ」という人名を「討った」
 と間違えたものを、
 そのまま真似たことになり、
 大隅からインドへ伝わった可能性が極めて高い。

 それが盛大に行なわれる
 インドのビハールという州名は、
 我が国ではミハルに変わるから三春。

 この地名は福島県の南部にあり、
 近くには安達太良(アダタラ)山がある。

 本州では
 「ウッタラ」は[だいたらぼっち」になるから
 「達太良(ダタラ)」は
  そのダイタラから変化した
 名だとしか考えられないし、
 「安」は阿部の阿で、本来は「オ」で、
 ウッタラの「ウ」に一致している。

 このように、
 すべてがウッタラの影響を裏書きしている。

 それが、まさか、
 景行天皇だ、などとは
 誰も想像すら出来ずにいたが、
 それがインドに逆輸出されて、
 今も続く一大行事の主役になっていたのである。

 それは、
 アソカ王の所へ往復したウッタラやソナカや、
 その臣下たちが運んだものだったのだ。

 だから彼等は、
 もちろん我が国にも大量の遺物を残したし、
 そのまま我が国に住み着き
 今の日本人の先祖にもなった。

 それは今もなお、姓や地名になって残っている。

 彼らの祖国はマガダ国(ニア)だが、
 鹿児島にはそのまま
 マガダと読める「曲田」姓があるし、
 その記念すべきアソカ王の名は、
 九州にある世界最大のカルデラをもつ火山、
 阿蘇の名として永遠に残した。

 阿蘇火山という文字は、
 そのまま「アソカさん」なのである。

 また彼等が開いた奈良の仏教の古都・
 飛鳥(あすか)もアソカの訛りであり、
 北九州の豪族・麻生氏も
 アソ=阿蘇でその子孫であることは疑いない。

 <暗殺事件ではなかった虎寿丸の葬儀>抜粋

 それを聞いた斉彬は、
 それまでも次々に幼児が死ぬのを、
 何とも思わなかったわけではなかった。

 気がつかなかったとすれば、
 もっと大切なことに没頭していたためだが、
 気がつかないような暗愚ではなかった。

 男の子ばかり死んで女の子は残ったことに、
 早くから気付いていて、
 別に跡継ぎが欲しいわけではないが、
 救えるものは救ってやろうと考え、
 それとなく奥に命じて、毒味を厳重にさせ、
 子供茶碗などの食器は、
 毎回、厳重に消毒してから使用し、
 外部の者は触れられないようにさせていた。

 だから鳥越の訴えを眼を閉じて聞きながら、
 徹底した方策を考えていた。

 聞き終わった斉彬は即座に、
 そちは虎が死んだと報告し、
 いずれかへかくまって、
 病気を治してやってくれ。
 行く先は余が段取りするから、
 西郷と相談して即座に実行せよ、
 とすぐ西郷を召されてお申しつけになり、
 その夜のうちに、
 数名の武士が密かに虎寿丸をつれ出したあと、
 供は鳥越御典医ただ一人とし、
 鳥越の小者ばかり数名が
 商人風に姿をかえて籠で東海道を下り、
 斉彬が指示した
 福山(広島県福山市)へ向かった。

 それは嶋津の家中では
 誰が信用を置けるか不明で、
 漏れる恐れがあるので、親友であり、
 同志である老中首席の
 阿部正弘に頼む他ないと考えたからだった。

 序文で申し上げた
 阿部老中との秘められた特別な親交というのは、
 この虎寿丸救出成功にみる、
 歴史の表面には
 現れない男と男の友情があったことを言い、
 そのお陰で、
 私(加治木義博)も今、
 こうして皆様にお話できるのだと痛感している。

 けれども阿部老中もさらに用心深く、
 斉彬と親しい自分が手を貸したのではないかと、
 眼をつけられて薮蛇になることまで考え、
 万全を期するために、福山には滞在させずに、
 隣接する備後・笠岡に鳥越を落ち着かせた。
 (備後という名乗りは、これによる)

 これが薩摩隼人である鳥越家が
 笠岡人である理由なのだというお話で、
 だから鳥越家には今も、
 嶋津家の家紋がはいった
 色々な道具が残っているのだといって、
 ここに掲載した写真などを見せていただいた。

 こうして虎寿丸は安政二年七月二十四日、
 満六歳で死亡、として葬儀が行なわれた。

 彼がそのとき死ななかったという証拠は、
 まず、今も残る幼児用の椀である。

 彼以後に生まれた三人の妹たちは
 皆元気で成人して、
 手紙など多数が残っているが、
 彼以前の兄弟は、
 六人とも満三歳までに死んで、
 子供用の食器は必要がなかった。

 虎寿丸ひとりだけが六歳になって、
 座って一人で食事ができたのである。

 だから批素などを塗り込めた
 毒殺用の椀を警戒して、
 斉彬が作らせた子供用の椀はこれ以外にはない。

 それは今、
 私(加治木義博)の手許にあるのだから、
 それ以後、転々とした隠れ家で使われて、
 記念のために保存されていたもので、
 それ以外には残っているはずがない。

 その後、虎寿丸は転々と移転を繰り返して
 久光派の魔手を逃れて行ったが、
 鳥越医師は
 阿部老中が辞任して福山へ帰ったあと、
 体調を崩した末期患者に名医の腕で仕えて、
 その最後を診とって恩に報いた。

 その時、福山の高名な観光地
 鞆の浦にある神社の森下宮司と親交が生まれ、
 のちに宮司が大阪に家伝の名薬
 『仁丹』の会社を設立して成功を収めたのにも
 大いに協力したといい、
 また私の父の遠縁にあたる
 森下博が養子に迎えられて社長になり、
 成功を収めたのも、
 虎寿丸が森下家と深く関わっていた
 縁(ゆか)りである。

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908

アベについて(4)

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《アベについて》

※出典:著者・加治木義博

 ◎大学講義録09

 <こんなにある「魚と同じ名の姓」>抜粋

 アサリ=浅利・麻里・浅井。
 アジ=庵治・安司・阿遅。味~。
 アメノウオ=天の魚(琵琶湖だけにいる)
 アラ=荒。
 アンコウ=安康天皇 
 イカ=伊賀・伊香。
 イサザ=五十狭   
 イシモチ=石持・石毛智。          
 イナダ=稲田。 
 イルカ=入川・入鹿。         
 イワシ=岩下・鰯田・岩師・井橋。
 イワナ=岩名・岩国。
 ウナギ=海の貴・棟木・大凧
 オオバ(イワシ)=大場・大庭。
 チュウパ(イワシ)=中馬。
 コパ(イワシ)=木場・木庭・木葉。
 ウグイ=大食→タジー→田尻。
 ウニ=宇根(沖縄発音ウニ)。
 エイ=頴娃・永。
 エソ=蝦夷。
 エビ=恵美・蝦夷。
 オイカワ=及川・老川。
 オコゼ=大小瀬。
 カイ=甲斐。
 カジキ=梶木・加治木。
 カツオ=加治木の魚→カチッオ→勝魚
 カニ=可児。
 カレイ=嘉例川。
 ギギ=魏・ゲギュウ(外宮) 
 キス=岐須・仇首・木津
 キハダ=木皮。 
 クジラ=百済。
 クラゲ=倉下。
 コイ=許斐・己斐・古井。
 コノシロ=古野・河野 
 コチ=高知・徴叱許智。
 ゴマメ=高麗女。
 サバ=佐波・早波。
 サメ=蚊島・醒井・鮫間。 
 サヨリ=佐用理=佐依=小夜=玉依姫
              に対するサヨ
 サワラ=砂原・佐原・早良・草羅。
 サンゴ=三吾・珊瑚。
 シーラ=椎良・白・斯羅・新羅・志毘羅。
 シジミ=志治味・洒水。
 シビ=志斐連・阿部と中臣にある 
 シャチ=幸
 スガイ=菅井・須貝。
 スズキ=鈴木・寿松木。
 スバシリ=砂走 
 スルメ=水流女
 タイ=田井。
 タコ=田子・多胡。             
 タナゴ=棚川・多奈川 
 タニシ=谷下・谷重
 タラ=太良・太良・田羅・多羅。
 トビウオ=鳥見・富尾。
 ドジョウ=土酋  
 トミヨ=富尾・富代・十三代。
 ナマズ=生津・鯰田  
 ニシン=西野
 ニナ=蜷川。  
 ニベ=仁部
 ハエ(ハヤ)=芳養・速・隼 
 ハゼ=枦・羽瀬・土師・長谷・泊瀬。
 ハタ=波田・波多・羽田・秦・畑。
 ハタハタ=秦
 ハマチ=濱地、羽町。
 ハモ=韓(ハン)
 ヒガイ=比嘉  
 ヒラメ=比良女・新羅女
 フカ=深尾・深田・深日。
 フク=福
 フナ=二名・鮒・船井・舟木・船田・船の史。
 ブリ=武利・武衛・風流・佐分利。
 ボラ=坊・洞 
 マス=増田・升・桝川・舛添・益城。     
 マベ=間部 
 マルタ=丸田・円田。
 ムツ=陸奥・武津。  
 ヤマベ=山辺・山戸・屋麻戸。
 ワカマツ=若松・新松。 
 ワニ(鮫)=和邇・王仁・和二・羽仁。

 ◎大学講義録17

 <戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利>抜粋

 白村江を韓国の地名と信じている人があるが。

 戦勝国新羅の正史
 『三国史記新羅本紀』は
 百済戦を詳細に記録しているのに、
 白村江に似た地名も海戦も倭軍と戦った
 記録さえもない。

 『日本書紀』だけが
 「大唐 軍将 率 戦船一百七十艘 陣烈 於 
  白村江」と、
 たった一度書いているだけなのだ。

 しかもその前には
 この戦船一百七十艘は
 安曇比邏(アヅミヒラ)夫が
 扶余国太子豊璋を百済に送った船団だと書き、
 同年、阿部比羅夫が船師
 一百八十艘で蝦夷国を攻めたと、
 斉明天皇紀の最後の部分に
 わざと話して書いてある。

 ア津ミ・アベはアメ、
 ヒラ夫(オ)はシラ王(オ)で新
 羅王=天(アメ)命開(ヒラキ)別=天智天皇の名。

 蝦夷は蘇我蝦夷=百済倭国王で、
 白村江・百済・蝦夷の国は
 皆同じ大阪なのだから、

 この3船団は
 本当は敵の日本軍の1船団だけなのである。

 そんな事実はこの大戦直後には、
 『日本書紀』編集者も天武天皇も国民も、
 知り尽くしている。

 それをわざわざ
 3船団のように見せ掛ける努力を重ねた目的は、
 簡単に割り出せる。

 天武天皇の当時最大の敵は、
 彼が倒した天智天皇一族よりも、
 巨大な兵力をもつ唐だった。

 『日本書紀』は
 その唐に読ませるのが目的だったから、
 本当は敵の新羅=日本軍の船団なのに、
 それを自国の船団に見せる記事に仕立て、
 百済倭国の首都・大阪の大敗戦も、
 朝鮮半島の植民地・扶余国の敗戦にすり替え、
 自国の名も
 わざと日本のまま押し通したのである。

 ◎大学講義録28

 <『十八氏纂記』を提出した人々
       (倭国出身)の歴史>抜粋

 『日本書紀』が
 欽明天皇紀から
 書き始められたという証拠としては、
 注だけでは弱いとお思いの方に、
 もう一つの証拠を御覧に入れよう。

 『日本書紀』第23舒明天皇紀は、
 推古天皇の死後、
 だれが皇位を継ぐかで動揺する関係者たちを、
 詳細に描写した部分に始まるが、
 その中心人物で、
 決定権を握る蘇我蝦夷が病気になり、
 代行者、阿倍臣、中臣連、河辺臣、
 小墾田(オハリタ)臣、大伴連ら重臣を通じて
 山背大兄王子に伝えた言葉がある。

 「磯城(シキ)島の宮に
  御宇(あめの下治(し)らしめしし)
  天皇の世から近世に及ぶまで」

 という語り出しである。

 これは、うっかりしていると、
 神武天皇の世から、
 という風に思えるかも知れないが、
 磯城島宮御宇天皇というのは
 欽明天皇のほかにはない。

 蘇我蝦夷といえば、
 その後
 「天皇記」、「国記」などを焼いて自殺した、
 あの人物である。

 その蝦夷がわざわざ初代天皇を
 欽明天皇だと指摘しているのである。

 それも、
 天皇を指名するという国家の最前の大事を
 決定するための、
 荘重かつ厳粛な宣言の冒頭を、
 権威あらしめるための、第一声である。

 それがとんでもない間違いであったとしたら、
 喜劇にしかならない。

 ◎大学講義録31

 <鎌足の阿武(アム)山と
      大織冠(オオしょくかん)の真相>抜粋

 これで倭国東遷の証拠がさらに充実したが、
 それより私たちの本来の主題である

 建国史のヒロイン・卑弥呼の名の語源が、
 決定的にわかることのほうが重要である。

 それを整理してみよう。

 茨木市に残る安威・藍野・鮎川が
 いずれも「アイ」の発音をもち、
 卑弥呼の本来の発音
 「ぺマカ(パーリ語)」の意味である

 「愛」の中国語発音
 「アイ」に一致することで、
 彼女の伝統を継ぐ政権が
 そこにあったことが証明されているが、
 これにはさらに強力な証言が加わってくる。

 この茨木市には、
 藤原鎌足の
 冠位「大織冠(しょくかん)」に
 相当する装束の遺品とされる玉製品が
 出土した彼の墓があることで
 有名な阿武(あぶ)山がある。

 この本来の発音は「アム」で、
 安威以上にアムピトリテの略名に一致していた。

 この「阿武」は、
 また萩市(山口県)を流れる阿武(あぶ)川と、
 その北東にある
 阿武町に代表される阿武郡が知られているが、
 それは名力士「阿武の松」を出したからである。

 この力士の醜名(しこな)は
 アブノマツではなく
 「オオノマツ」と発音するから
 阿武の古音が「オオ」だったことがわかる。

 すると
 百済倭国(フジワラ)(藤原)鎌足の墓が
 造られたから
 その山が「オオ=倭」山と呼ばれ
 阿武山と当て字されたのだとわかるし、
 さらに彼の冠位「大織冠」の大は
 「倭人(オオ)」で、
 織は「職=役職」、
 冠は「上(かみ)・守(かみ)」、
 倭人を管理する長官といった国名だったとわかる。

 <馬国城(ウマラギ)の歴史と
      害虫名アブ・シラミの皮肉>抜粋

 こうわかると、
 鎌足の墓が山上にある茨木は
  大化改新(乙巳の変)後の旧百済倭国人の
 本拠地だったことがわかるから、
 茨木という地名もその歴史が読み取れる。

 茨木は古音「ウマラキ」だから
 「馬国(ラ)王(キ)・馬国(ラ)城(ギ)」
 すなわち
 百済倭国王の城=都城(とじょう)=首都
 という意味への、後世の当て字で、
 茨城という当て字は、
 むしろ茨木より
 本来の都城の意味を残していて、
 平将門式の中央政権への抵抗の跡が
 感じられる地名であり、
 倭国東遷が一層鮮明に立証されてくる。

 ここまでわかると取手市の西南隣りにある
 我孫子(アビコ)も、
 アブよりさらにアムビに近いから、
 本来は取手と一体になっていた
 遺跡だとみるべきだし、
 茨城県から北上する
 阿武隈(アブクマ)山地の名も
 阿武隈川の名も共に、
 また当然、
 このアムピトリテの子孫でなければならない。

 この「アブ」の名は、
 百済倭国が、
 国民にどう思われていたかまで記録している。

 アブは「虻(アブ)(古音アム)」で、
 戦前までは大量に発生して、
 うるさく人畜にたかって
 生き血を吸う嫌われ者だったし、
 新羅も蛭子も同じ生き血を吸う
 嫌れ者の名に使われている。

 「シラミ」は南九州語で
 「シラメ・シタメ=新羅女・下女」という。

 蛭は池や川にいる害虫である。
 「厄介者には手出しをするな」
 という意味のことわざ

 「虻・蜂とらず」は、
 抵抗は無駄だという諦めの譬(たと)えだが、
 蜂は八幡で、
 応神・仁徳系も
 決して好かれてはいなかったのだ。

 ◎大学講義録32

 <5世紀の欧州に
      『出雲神話』を広めた人々>抜粋

 ついでにいえば邪馬国はジャマ国で、
 むしろドイツを指す英語のジャーマンに近い。

 このほうは単なる
  「他人のソラ似」などではなく、
   5世紀にアッチラ大王
 (阿修羅王=ウッタラ= 
  大多羅坊主(ウッタラボッチ))を
 戴いて欧州に進入し、
 ハンガリーやハンブルグをつくり、
 フィンランドをつくった
 アジアからの遠征者・
 フン族とか匈奴(キョウド)とか
 呼ばれた人たちが、
 いま日本とドイツに現存する

 財津(ザイツ)(Seit)さん、
 久野(Kuno)さん、
 阿部(Ave)さん、
 岡・大川(Oka)さん、
 三浦(Muller)さん、
 人等(ヒトラ)・日虎(ヒトラ)(Hittler)さん
 等という
 多くの姓を双方に残したものと見るほかなく、
 そこでもまた
 『出雲神話』そっくりの
 ジークフートの大蛇退治伝説などを、
 広く北欧に拡めているが、

 ジーク(邪久(ジャク))
 フリート(布留人(フルヒト)=夫余人)と

 読めば、
 屋久島王=厄神であるスサノオの尊こと
 高句麗山上王・位宮にヒッタリの名乗りになる。

 するとジークフリートが暗殺されたあと、

 か弱い、女性の身で
 復讐を成し遂げた彼の妻クリームヒルトも、
 クリーム(高麗国(クリーム)=大隈発音)
 ヒルト(日霎徒(ひると)で、
 ソナカ死後に倭国大乱を勝ち抜いて、
 女王に即位した卑弥呼=神功皇后にも、
 また位宮が暗殺された後の
 壹與=神功皇后にも共にピッタリ合う。

 これも笑って済ませられる問題ではない。

 『出雲神話』とは、
 簡単に結論の出る「日本製神話」でも、
 「輸入品だ」で済む相手でもないのである。

 ◎大学院講義録09

 <応神天皇の后妃皇子女>抜粋

 后妃の父     后妃      皇子女     皇孫

               ┌額田大中日子命
               ├大山守命
       ┌高木入日売命─┼伊奢真若命
       │              ├大原郎女
       │              └高目郎女
                    │
       │               ┌木荒田郎女  ┌大江伊耶木別命
 品陀真若命─┼中日売命─┼大雀命     ─┼墨江中王
       │     └根鳥命        ├蝮水歯別命
       │             └男浅津間若子宿祢
       │         ┌阿部郎女
       └弟日売命    ─┼阿貝知三原郎女
               ├木莵野命
               └三野郎女

 <九州から近畿へ飛ぶ皇子女名>抜粋

 次は皇子女の名乗りを簡単に見てみよう。

 額田は『魏書倭人章』の官名・奴佳鞮。

 高目は<タカマ>で高天と同じもの、
   宮廷を意味する。

 木荒田はキイ=霧=霧島と
 安楽(大隅)国(ダ)、荒田(鹿児島市)で
 安羅国。

 根鳥はネチョウで根占。

 阿部はアメで阿波・淡、
 『隋書』の阿輩=阿波王(アハイ)。
 阿貝知三原は淡路島三原郡。

 木菟野は
 キノ=紀伊・チヌ=姐奴国⇒茅沼・ツナ=津名。

 三野は弥奴淘から三瀦。

 宇遅和紀と宇遅若は
 倭とチヌ=茅沼・ツナ=津名で津名王と王妃。

 八田は波多で
 「孝元天皇記」の波多八代宿祢の
 2重名乗りが示すように八代(肥後)。

 女鳥の女は沖縄~大隅発音で
 はミ、ミトリは緑だが
 当時はこれに合う地名はない。

 「応神天皇記」の「蟹の歌」に
 「伊知遅島、美島」があり、
 伊地知姓は鹿児島独特の姓だから、
 これは同県の三島とみると、
 この女王と速總別の悲恋が具体化する。

 若沼毛二俣は
 和歌山と沼島と紀州にまたがった王。

 速總別はハヤ・ソオで隼=巴利国と曽於。

 大羽江と小羽江は
 ウハイとヲハイで倭⇒
 上井(大隅と備後)と尾張。

 檣日はハタヒ、八代と火の国。

 川原田はコウハルダで今の高原(日向)国。

 玉はツマ・タイマで
 投馬国・妻・当摩(日向)・
 但馬・当麻(大和)。

 忍坂はニンバン=
 ニルバナ(臨終)への当て字で、
 大中日女は額田大中日子と
 同じく管掌する仕事の官名。
 
 登富志はトフシで答志(志摩)。

 迦多遅は加太(和歌山)道(ジ)。


 ◎大学院講義録12

 <大国主と応神天皇の系譜比較>抜粋

       大国主の系譜             応神天皇の系譜

       妻        子             妻       子

 1 多紀理毘売   阿遅鉏高日子根   高木入日売命    額田大中日子命
            (迦毛大御神)            大山守命
              高比売                  伊奢真若命
            (下光比売)               大原郎女
                               高目郎女
                                 木荒田郎女

 2 神屋楯比売    事代主       中日売命      大雀命

 3 鳥耳       鳥鳴海            弟日売命  阿部郎女
                             阿貝知三原郎女

 4 日名照額田毘道                      木菟野命
   男伊許知邇    国忍富                 三野郎女


 5  葦那陀迦    速甕之多気佐  宮主矢河枝比売命 宇遅和紀郎子
   (八河江比売)  波夜遅奴美                   八田若郎女
                                  女鳥王
       
 6  前玉比売    甕主日子      袁那辨郎女       宇遅若郎女

 
 ゴシックは相互に対応している部分

 <大国主と
      応神両系譜の后妃皇子女はどう合うか?>抜粋

 しかし、
 この絵は沖縄に土着した人々の、
 ささやかな漁猟生活を写したもので、
 列島本土に移住した人々の子孫には、
 奇異に映った風俗だったのである。

 千年の年月は、
 それだけの風俗差を作りだしていた。

 では本土に移住したギリシャ系海人族は
 どうなったか?。

 雄略天皇が金波鎮漢紀武と名乗って、
 81艘の海軍を率いて
 允恭天皇を倒したことは先にお話しした。

 それ以後に確実な記事があるのは
 大化改新前後である。

 『日本書紀』をみると、
 天智天皇元年5月、
 大将軍・大錦中の阿曇の比羅夫が、
 船師170艘を率いて、
 百済の豊璋を百済国まで
 護送したという記事がある。

 この阿曇は従来、アズミと読んで来たが、
 阿はオ、オーでもあるから、
 「オーズミ=大隅」であり、
 百済をホズミと読んだものの大隅発音でも、
 やはりオースミになる。

 結局彼は百済人そのものだから、
 ポセイドン人=海軍の総指揮官だったのである。
 
 この海軍の総指揮官がもう一人いる。
 阿部の比羅夫である。

 同じ名乗りをもったこの人物は
 斉明天皇4年4月に、
 船師170艘を率いて蝦夷を討ち、
 続いて粛慎(シン)を討つ。

 同6年3月には船師200艘を率いて、
 また粛慎を討つ。

 その船がどれ位の大きさだったかは別として、
 渡海して兵員を運んで戦えるだけの海軍が、
 7世紀まで実在したことは確かだ。

 ◎大学院講義録15

 <台湾から青森まで、
  倭国の足跡を記録している陸奥>抜粋

 この「日本語読み」の問題に視点を絞ると、
 さらに大きな証言が出現する。

 それは
 台湾の古名が「小琉球」で、
 沖縄が「大琉球」と呼ばれていた事実である。

 これは誰がみても現実とは逆になっている。

 沖縄は小さく、台湾が大きい。

 しかし、この大小を日本語読みすると、
 コ琉球とオオ琉球である。

 これは
 古(こ)琉球と倭(おお)琉球だったとわかるから
 何の不合理もない。

 この琉球の名はリクウという
 大隅語のまま「陸奥(リクアウ)・リクウ」という
 当て字になって現在も残っている。

 もう1つの琉球への当て字・
 六合(りくあう)も、
 六をムツという日本語で読んだ
 「陸奥(ムツ)」という読み方として残っていて、
 東北地方の北端まで
 琉球人が移住した事実を立証している。

 だからこれで私たちには、
 琉球は単に沖縄県だけでなく、
 台湾からスタートして青森県まで
 到達したことが読みとれる。

 それは今の主題
 「ギリシャ系倭国天皇家が台湾で生まれた」、
 そして5世紀に大和朝廷を造り、
 7世紀に大化改新で近畿の倭国政権が負けて、
 日本政権に変わったあとも
 東国では勢力をもち続けており、
 最後に東北に移動して、
 この陸奥の地名を現在まで止どめているのだ、
 と明確に理解できる。

 するとその追撃戦の記録もよくわかる。

 先ず天智天皇の阿部の比良夫、
 次が坂上田村麻呂、
 そして八幡太郎義家で、
 八幡平(たい)などの地名も
 その遺物だと非常によくわかる。

 ◎大学院講義録16

 <なぜ?
     3人のヒラッ(比羅夫・開く)は
     同一人か?>抜粋

 この2人に見える比羅夫は
   実は同一人なのである。

 なぜなら
 阿曇=アヅミはア津ミに対する当て字であり、
 阿部は
 沖縄語ではアビでビは美を当て字するとミ。

 ア津ミから助詞の津をとった
 アミと同じになるからである。

 これは多くの記録を素材にした
 『記・紀』編集者が、文字が違うから
 別人だと錯覚して、
 2重に記載したための事故だとすぐわかる。

 しかしそれが同一人だという
   理由はまだ他にある。

 これだけで断定するのは間違いなのである。

 もう1つの理由は、
 沖縄語では「天」もまた
   アミと発音することである。

 この2人の比羅夫と同時存在である天智天皇は、
 「天命開別」という名乗りをもっている。

 これは大隅語では
 「アミの命、開(ヒラ)ッビチ(日木(ビチ)=
  ヒコ=日子)」と読む。

 このうちの敬称の「命と日子」を除くと、
 後に正味の名が残るが、
 それは大隅語では「アミ・ヒラッ」になる。

 2人に見える比羅夫もまた
 大隅語で「アミ・ヒラッ」である。
 3つとも全く同じ名なのだ。

 しかしこれでも同一人だというのは、
 まだ早い。

 それは3人の別人が、
 順番に一つの名乗りを継承した
 可能性があるからである。

 しかしこの3人は
 単に同時存在だというだけでなく、
 同時に同じことをしている。

 この3人のヒラッは
 白村江戦争で共に
 百済を助けて戦っているのである。

 同じ名乗りをもつ他人が同時に3人もいて、
 同じことをすることは絶対にない。

 <比羅夫が打った蝦夷は
      天智天皇が討った蘇我蝦夷>抜粋

 しかし、
 同一人だとすると新たな疑問が沸(わ)いてくる

 先に阿部の比羅夫が蝦夷を討伐し、
 粛慎を討ったとあるとお話しした。

 だとすれば天智天皇の大変な業績なのに、
 なぜ?
 それが一言も記録されていないのか?。

 いくら記録が混乱したといっても、
 それは記録の持ち主が、
 それぞれ使った当て字が違うだけで、
 その事跡は同じように書かれていたはずだから、
 それまで変わってしまうことはない。

 変わるのは当て字のちがう
 名前くらいのものである。

 そして実際に検討してみると、
 事実、全てその通りなのだ。

 いやその名の1つである蝦夷に至っては、
 その文字さえも同じなのである。

 天智天皇は中ノ大兄ノ皇子時代に、
 彼の最も有名な行為、
 クーデターを敢行して
 蘇我を倒したと記録されている。

 もうおわかりのように、
 その相手は蘇我「蝦夷」なのである。

 すると阿部比羅夫が討った蝦夷討伐の、
 顎田(アグタ=原文には歯偏に咢の文字と田)や
 淳代(ヌシロ)はどうみても、
 東北地方の秋田や能代ではありえなくなる。

 ところが同じ年に粛慎も討つ。

 粛慎といえば
 私たちの常識ではシベリアの住民である。

 その一部が、
 そのときの阿部比羅夫の名乗りである
 「越国守」の名から北陸あたりが、
 その粛慎国だったのだとされてきた。

 だがこれも怪しくなる。

 ではそれらの記事はすべて、
 『日本書紀』がデツチ上げた
 大ウソだったのであろうか?。

 ◎大学院講義録18

 <日本語で容易に読める
      シベリヤ南部の地名群>抜粋

 もちろんシベリヤ南部も見なければならないが、
 その地名をえんえんと並べていては
 多分うんざりなさると思うので、
 南部は簡単に済ませるが、
 それでも充分、
   日本語だということが確認できる。

 バイカル湖にそそぐのはオカ川で、
 岡川や遠賀川と同じ。

 そこから北上してチクシまで行くのが
 先にお話ししたレナ川だが、
 この川沿いにも

 ジガンスク        地神宿。
 サンガル         下がる。
 バタマイ         畑舞、畑米。
 ハンシガ Khansiga     坂滋賀・神志賀。
 アムガ        天家などが並んでいる。

 このアムガは
 阿武家と書くとオオガとも読まれて、
 大神・相賀・大川などにも
 変化している地名や姓に一致する。

 このほか
 カリムスコエ    狩息子江・雁産越。
 トンモト      宮本。
 アルダン      有田の。有段。
 ナゴルヌイ     名残縫・名残無。
 ツルン       鶴野・都留野。
 ジダ        地駄
       (南九州では土地をジダという)。
 アンガラ      天韓・甘辛。
 ネリユングラ    練湯之蔵。
 シルカ       汁香。
 シマ        志摩。
 ケ       毛島・毛之国・貝志摩・家島。
 イリムスク     入間宿・西国宿。
 ウスチクート    御主筑人・臼地区人・
           有珠地区大人。
                                 などがあるが、
 ヤゴトノエ     矢事之江・家琴之江は、

 先に見たノボリブノエと共に、
 「○○○ノエ」という名の多い
   ギリシャ名に合う。
 これはギリシャ人移動後の地名である
   可能性が強い。
 大阪市の野江もこれに対応する。

 ◎大学院講義録21

 <「世界宗教!神道」も雑婚も
         歴山大王の遺訓から>抜粋
 
 これをも少し詳しく解説すると、
 卑弥呼も位宮も
 我が国最古の王朝・高句麗系の
 孝霊天皇の皇子女だが、血統はギリシャ系。

 それがさらにソナカと結婚して
 インド系の血を交(まじ)えた。

 その子孫が皇室なのだから、
 万世一系は「純血」は意味しない。

 アレクサンドロス式の
 国際結婚が根本理想だったのである。

 だから神道も同様で、
 天皇はスメラ王(ギ)、
 天皇陵はスメラ山(須弥山)を象り、
 拝礼はアラブ式に土下座する。

 拝む神はギリシャとインドの神に
 仏教の死者祭祀を加え、
 祭礼様式はインドのシンドゥのものを模倣し、
 ユダヤ教のへの当て字。

 開聞→不知火→白日別はシラクサで
 ギリシャ系だったが、

 のち
 シーラバッガ信者=戒律派仏教徒
 という主張で卑弥呼系の人々を洗脳、吸収し、
 新羅になった邪馬壹国(壹與=始祖王)。
 肥後の肥はクマでカリエン系。

 鹿児島県西部から熊本県にかけてが、
 後世まで高族の本拠
 「クマ=熊=高麗(クマ)=高句麗(クロ)」
 の都として栄えた。

 しかし筑紫は肅慎の本拠として、
 北方シベリヤに支族を送り出し続けて
 干支圏を支配した。

 それも
 天智天皇=阿部比羅夫が討った時代まで、
 間違いなく九州に実在したのである。

 ◎大学院講義録24

 <『書紀』は政策史書だと暴露している
       天智関連記事>抜粋

 では『日本書紀』は
 全部の記事がそんな寓意をもった
 「教科書」なのか?。

 欽明天皇から後は寓意が少なく、
 一見史書らしい記録記事ばかりになっている。

 しかしよくみると御存知の大化大戦の前後は、
 史実とはいえない政治的小細工に満ちている。

 そこには
 天智天皇自身が 
 中の大兄の皇子や
 阿倍の比羅夫や金春秋に分裂して、
 孝徳天皇紀から斉明天皇紀、
 そして天智天皇紀にまで、
 まるで別人のことのように
 様々に分裂して分散しているのを見る。

 それは古い歴史ではなく、
 『原日本書紀』を編纂し始めた時の、
 同時代記録なのである。

 企画者自身がそんな
 「限眩(くら)まし」を実行しているのは、
 旧倭国民への深刻な配慮以外に理由はありえない。

 それは大化改新記事で明らかなように、
 天智天皇の革命が
 正当な行為だったという主張と、
 日本政権が主流で、
 倭国が亜流で家臣だという観点で貫かれている。

 天智天皇がなぜ?
 新しい国史を必要としたか、
 そのために倭国の歴史がどう抹殺されたか、
 またそれに対して、
 旧倭国民がどう抵抗したか、
 人間界の実情に少し鋭い眼をもつ人には、
 簡単に理解できる問題ばかりである。

 それさえも考えなかった
 在来の学者たちが
 どの程度の頭脳の持ち主だったか、
 いまさら申し上げるまでもない。

 その説を引用する前にお手持ちの論説文献を、
 この視点からご再検戴くことが、
 絶対に必要不可欠なのである。

 M.K記(責)
http://blogs.yahoo.co.jp/PROFILE/Y1WGxeo8erJfyFcQEz_j_ksX6vA-
 連絡先:090-2485-7908