2019年5月14日火曜日

東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 


 「東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路」

 (1) 大淀町〔吉野郡〕
    大「オウ」ευ(ευς:ευー)
   立派な、勇敢な、良い、役に立つ、有用な
    淀「ヨド」yudh 戦士、兵
   「オウヨド」ευーyudh
   〔立派な(役に立つ)兵〕:ヤタガラス軍団

 (2) 下市町の 市:大淀町上市の 市「イチ」
          yudh 戦士、兵、戦闘
    ※東征軍は五條市から東方へと引導された

 (3) 吉野町 柳「ヤナギ」
   (Sk.)yonaka 
   〔Iwvia(イオニア)のインドでの呼称〕:ギリシャ人
  ※アレキサンダー大王軍に参加した
       イオニア人の後裔がバクトリア(中央アジア)に
       残り、ヘレニズム文化の担い手となったが、
   紀元前2、1世紀頃
   ヒンズークシ山脈を越えてインドに侵入し、
   その都市〔シャーカラ〕はまた
   Yonakā-nam〔ギリシャ人の都市〕と呼ばれた。

   ※<中村元「インド古代史」>
    第二節 メナンドロス王 
    第二章 ギリシャ人のインド支配
  
   「インド統治」
    かれはインドに進入してからは
   西北インドの
   シャーカラ
      (Śakala、パーリ語Skala、現在のŚiālkoţ)に
   都した。

   それはChenāb川と Rāvi川との中間に
       位置している。

   それは叙事詩にもあらわれている都市であるが、
   かってアレクサンドロスやデーメートリオスに
      征服された。
 
   地理学者プトレマイオスによると、
   この都市はEuthymedia または Euthydemia と
   呼ばれたというが、
   おそらくエウティデーモス王家と
      関係があったためであろう。

      この都市はまた
      メナンドロス王に征服されたのである。

   後に6世紀初頭に
   匈奴王ミヒラクラ(Aiԧiraķula)の首都にもなった。

   メナンドロスの当時、
   シャーカラは「ギリシャ人の都市」
   (Yonakānaṃ…nagaram)と呼ばれるほどに、
   ギリシャ人の支配的勢力が強かった。

   シャーカラは物資が豊富に集積し、
   極めて富裕であった伝えられている。

      『ギリシャ人の国に(Yonakānaṃ)、
    多くの物資交易の中心地である
    サーガラ(Sāgala)

    という都があった。
    その地方は山河の風光が明媚であり、麗しく、
    遊園・庭園・林・沼・蓮池があった。
    山河や林によって美しい(この都は)、
    学識ある技術者に設計せられ、
    仇敵は掃討せられ、
    危難に襲われることがなかった。
    他種多様な堅固な望楼と塁壁があり、
    優秀なる城門と入口あり、 
    王宮は深い濠と白い壁に囲まれ、
    街路・四衙・十字路は区割整然たり、
    高価な品物をよく陳列した市場にみち、
    種々なる幾百千の
        「施しの家」(dā-nagga)に限られ、
    ヒマラヤ山脈にも似た
        豪壮な幾百千の邸宅に飾られ、
    象・馬・車・歩兵に充ち、容姿端麗なる男女の
    群れが列をなし、群衆が充満し、
    幾多の
    クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ・シュードラ
        あり、
    種々なるしゃもん・ばらもんの会衆は
        会釈を交わし、
    種々多様の学問ある識者が居住し、
    ベナレスの衣(Kāsika)・
    コートゥンバラ衣(Koțumbaraka)など
    種々なる衣服の商品に満ち、
         四方に向かって商品を
    良く陳列されている市場から芳香が匂い、
    人の欲する多くの宝石に満ち、
    四方に向かって商品をよく陳列した
    貴重品商人の群れが集い、
    貨幣(kahāpana)・金・銀・銅・石材が充満し、
    輝く鉱山(のごとく)であり、
    財・殻・富・資料は豊富であり、倉庫は充満し、
    飲食物多く、多種の硬くあるいは
    柔らかい食物・美味・飲料・菓子もあり、
    ウッタラクル(インド伝統の理想国土) 
        の如くであり、
        穀物は備わっていて、
    あたかも天上の都
    アーラカマンダー(Āļlakamandā)の
    如くであった。

  〇「柳」地区は吉野町北側、
   大宇陀町(宇陀郡)との境界に接し、
   その境界に
   「烏塒屋山(からすのとややま)(659m」がある。

   
「塒」字はシ・ジ(shih)と読み、
   「ねぐら」の語義。

   よって、同表記は「烏のねぐら屋」となる。

   これを考慮すれば東征軍は上市から小島峠、
   香束へと、柳の中竜門から左へ折れ、
   烏塒屋山付近を越えて
   大宇陀町の栗野〔宇陀郡〕へと侵略した。

   なお、当該の山は烏ノ士時屋山ともされた。

 (4) 大宇陀町栗野(くりの)〔宇陀郡〕
    栗野「クリヤ」
    (Sk.)kara-ya(karasayati)引く<引導する>

    ※久留野〔五條市〕と語源を同じくし
    「ヤタガラスの引導」を表し、
     東征軍がこの地に侵攻したとの遺称である。

   阿紀神社〔大宇陀迫間町〕


   『延喜式神名帳』大和国宇陀郡 阿紀神社「アキノ」
   阿紀「アキ」αγος〔agos〕指導者、首長
    αγινεω〔agineo〕
           導く、案内する、連れて来る。
     この地域は「アキノ:阿騎野」であった。
    äγω〔ägo〕導く、運ぶ、指揮する
    ※同神社の祭神の第一は「天照皇太神」である。

 (5) 榛原町〔宇陀郡〕
   〇榛原「エハラ」
    ευ-πορεω〔eu-poreo〕
     うまくゆく、成功する、うまく通り抜ける。
    ※東征軍大和盆地に侵入したとの成功をいう。
     しかもここに留まったにではなく、
     この地を「うまく通り抜けた」のである。
     ともかく、この地が侵攻した所との表意である。

   〇栗谷「クリヤ」
     (Sk.)kara-ya(karasayati)引く<引導する>
     ※久留野〔五條市〕、 栗野〔大宇陀町〕名の
      語義に同じ。
      つまり、「ヤタガラス」に引導された東征軍が
      ここに移ってきたことをします。

   〇八咫烏神社「延喜式」神名帳「ヤタカラス」
     (現)宇陀郡榛原町高塚 祭神:鴨建角身命


   〇柳「ヤナギ」:栗谷・高塚地区から北方、
    (現)榛原トンネル(近鉄大阪線)の西側辺り
    (Sk.)yonaka〔Ιωνια(イオニア)、
       インドでの「ギリシャ人」との呼称〕

   ※東征軍はこの辺りから
          西方桜井市初瀬方面へと移動、
     侵攻していった。

 (6) 桜井市
   ※東征軍は柳〔榛原町〕辺りから
         現在の国道165線あるいは
         近鉄大阪線に沿って西方へ侵攻し、
    三輪山の南麓から西麓へと廻り込んで、
    桜井市の箸中から
         天理市の柳本町・中山町辺りに至り、
    そこに本拠を設営した。

   〇檜原神社〔桜井市三輪:三輪山の西北麓〕
    「エハラ」:宇陀郡榛原町の「エハラ」に同じ
    ευ-πορεω〔eu-poreo〕成功する。


   ※遂に東征軍は
    大和盆地に定着することに成功したのである。

   〇大兵主神社(現)桜井市穴師
    『延喜式神名帳』大和国城上郡 
     穴師坐兵主神社名神大「アナシ」
    穴師「アナシ」
    ανασσειν〔anassein〕
         支配する、支配者である 
    αναξ〔anask〕支配者、王


   〇太田〔桜井市箸中・巻野内(纏向)の
                  西側に接する地区〕
    『延喜式神名帳』大和国城上郡 
    他田坐天照御魂神社大「ヲサタノ」
    「太田(他田)(Grk.)αυτη〔auti〕
          戦争、戦闘、音響(鬨の声)


   〇太田市〔橿原市:桜井市との境界、
                    「太田」の西側〕
    「オウタイチ」
     (Grk.)αυτ-ερετης〔aut-eretis〕
       戦士で(船の)漕ぎ手を兼ねる者

   〇神武天皇聖蹟〔桜井市茅原〕


 (7) 天理市
   柳本「ヤナギモト」:yonaka(ギリシャ人)の本拠

  ※ここには「崇神天皇陵」がある。


   〇檜垣「ヒガイ」 
    (Grk.)ηχη〔hxai〕音響、どよめき、鬨の声
   ※「太田」の祖語αυτηと同義
    「太田」の北側近く、柳本の西隣り

   〇爲川「イカワ」〔田原本町:南、北〕
    (Grk.)ηχεω〔ixew〕響く、鳴く,
              ηχη〔hxai〕の動詞形

   ※東征軍は軍略の成功を
         「鬨の声」を上げて(響かせて)
    祝ったのである。


 M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908



2019年5月10日金曜日

八百萬(やおよろず)の神の存在

《バグダッド下水音頭》「ホントにホントに ご苦労さん」

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

加治木義博
言語復原史学会
大学院講義録

八百萬(やおよろず)の神の存在

 真実の日本人は、
 この辺鄙の小島に細々と暮らしてきた
 列島土人の子孫ではなく、

 少くとも3000年まえには
 世界に先駆けて地球の大きさを測量し、
 海を越えて中国に殷帝国を建国し、
 シベリアを領土とし、
 その他の広域アジアの人々と交易し、
 通貨を供給してグローバル経済を維持し、
 発展させ続けていた偉大な文明人だったのである。

 無知な明治人が空想したような、
 他の人類とは異なった特殊な日本土人どころか、
 当時の全世界の文化を、逆に指導し、
 高めることに努めた
 最高の文明の持ち主だったのである。

 それは今、我が国だけにある「神道」という
 宗教の実態を知れば、疑いの残る余地はない。

 それは
 「八百萬(やおよろず)の神」
 という古語が全てを立証している。

 この八百萬の神とは、
 過去の学者が漠然と空想して説明していたような、
 「多数の神」という、単なる装飾語や、
 ただの量的表現ではない。

 それは
 日本語の初歩さえも心得ない学者?たちの実態を
 白日のもとに暴露している説明なのである。

 日本語では
 「八百(やお)」は八百屋(やおや)
 という使用例が物語るように、
 いろいろな種類、品種の多いこと表現する
 「形容詞」であって、
 単に数量が多いという数詞ではない。

 「萬(よろず)」もまた、
 今も生きている萬屋(よろずや)
 という商店名が証明しているるように、

 一種類の商品を1万個もっているという、
 単に多数を意味する言葉ではなく、
 多数の「種類」の商品が揃っていることを
 意味した形容詞で、
 萬屋はデパートに当る言葉である。

 だから八百萬の神とは、
 単に1宗教の神が、
 8百万もいるというのではない。

 それは八百も萬も、
 「日本には世界の多種類の宗教の神々が
  祭られている」という意味なのである。

 このことに早く気づいた私は、
 半世紀以上かけてその実態解明に取り組んだ結果、
 古人が書き残したとおり、
 日本の神々には、
 一神教の神も、
 多神教の神々も、
 仏教の神々も、
 東南アジアの地方神も、
 シベリアのシャーマンも、
 朝鮮のムーダンも、
 さらには遠くエジプトの神々も、
 ギリシャの神々も、

 はっきり見分けられる名で
 記録されていることを発見し、
 新たな証拠を次々に
 書き加え続けることができた。

 それは唯物史観によって
 無視されていた
 無形の『言語文化財』の存在を発見し、
 その役割と意味と変化を
 確認できるようになったからである。

 それはまた天皇名とされてきたものが、
 本当は個人名ではなく、
 その領土と職務を併せた
 「名乗り」であることの発見と相俟(ま)って、
 その当時の都や主要国がどこにあったか、
 それが
 どう発展し、どう移動し、どう変化したか
 といった重要な史実を、
 一つ一つ確実に確認することが
 できるようになった結果、
 それまで先人の説を批判して
 「間違いだと思われる」
 「こちらが正しいのではなかろうか」
 「…ではあるまいか」といった、

 実にあいまいな論争だった
 「水掛け論式学説」では
 とうてい解明も発見もできなかった
 「真実の史実」を、
 知性ある人なら万人が認めるしかない
 「科学的結論」として、
 すべて確認できるようにしたのである。



 M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908

黄泉戸喫(よもつへぐい)

《バグダッド下水音頭》「ホントにホントに ご苦労さん」

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

加治木義博
言語復原史学会
大学院講義録

黄泉戸喫(よもつへぐい)

 国家というのは、
 単に土地を占拠すればいいというものではない。

 そこに住む国民がいて、何かの産業に従事し、
 その経済力を活用せねば王も軍人も役人も、
 その国を維持して行くことはできない。

 たとえ敵には負けなくても、滅びてしまう。

 しかしどんなに原始的でも経済活動には、
 利害が相反するジンクスがつきまとう。

 労働は時間と体力と資本を消耗する損失であり、
 その結果得られた収穫の代価=収入が
 その損失を上回らなければ永続きしない。

 その体制は滅びてしまう。

 けれども代価を払わずに収穫を奪い去る盗賊がいる。

 ところが古代社会を支えていた農水産業は、
 広い面積の土地や水域から収穫するしかないから、
 不眠不休で見張っているわけにはいかない。

 だから常に盗まれ、紛争が起こる。

 それを防ぐには強奪者を捕らえて
 処罰する強い警察力がいり、法律がいり、
 それらを支える権力と給与がいる。

 さらに必要なのは侵略者を撃退する兵力で、
 これらがなければ国民が従わないから、
 国家も政権も成りたたない。

 だがそれには国家の構成と、
 不正を処罰する根拠になる
 法律と税収がなければならない。

 いま私たちがここでお話ししている
 「建国」の時代とは、この法と力が備わって、
 国民がそれを認知した時、ということなのだ。

 古墳時代の甲冑(鎧兜)は
 ギリシャ式の立派なものが出土しているから、
 武力で優勢だったことは確かだが、
 応神天皇たちはそれ以外に
 法律をもっていたのである。

 これまでは聖徳太子が定めた
 十七条憲法が、
 我が国法制化の最初だと教えられてきたが、
 それはこの建国の条件を考えると、
 根本的に間違っていたことがわかる。

 成文化したものが見つからないだけで、
 法律のない国家というものは考えられないからだ。

 だから允恭天皇が、
 氏姓を偽っている国民を摘発するのに、
 手を熱湯に入れさせたという
 「探湯(くかだち)」は
 古代法の施行例の1つであって、
 そうでなければ国民は、
 そんな裁決方法を承認しない。

 倭国には当然、そうした法律があったのである。

 その事実を伊弉諾・伊弉冉2尊の物語も、
 また明快に立証している。

 それはいつ?、何処で?、生まれた法律だったか?。

 イザナギはイザナミを連れもどそうと
 黄泉国(よみのくに)へ行って、
 妻に地上へ戻ろうと誘うと、

 妻は
 「私はもう黄泉戸喫(よもつへぐい)を
  してしまったので戻れない」と、
 夫が早く迎えに来なかったことを、強く非難する。

 在来の学者はこれを単なるお伽話の一節として、
 何の考証もしていないが、

 この話が、
 古代日本に法律があった事実と、
 その文化の源がどこかを記録していたのである。

 それはもういうまでもなく、
 古代ギリシャの法律だったのである。

 しかしこの話の原話がギリシャ神話中の
 「オルペウスの冥界降だり」
 であるからというのではない。

 オルペウスとこの話は細部ではだいぶ違っている。

 ただ着想だけを利用して、
 実際にあった歴史を巧みに表現したものが、
 伊弉諾の尊の
 「黄泉(よみ)の国、降だり」だというのが正しい。

 ギリシャの黄泉(よみ)の国の王・ハデスは、
 ゼウスと収穫の女神・デメテルとの 
 ペルセボネを誘拐して黄泉に連れて行った。

 デメテルはゼウスに
 娘を取り返すように裁きを求めたが、
 ゼウスは弟にワイロを貰っていて、
 妻の頼みをきかない。

 デメテルは怒って大飢饉を起こす。

 困ったゼウスは
 「ペルセポネが黄泉で
  何も食べていなかったら連れ戻せるが、
  もし何か食べていたら、
  所属を決める古来の法律によって、
  ペルセポネはハデスの客ということになり、
  ハデスの妻になるしかない」
 という裁定を下した。

 ところがデメテルに恨みをもつ庭師が、
 飢えと乾きに苦しむペルセボネに、
 水々しいザクロを与え、
 彼女はそれを食べてしまった。

 ハデスはオリンボスの法廷で、
 その事実を証拠に
 「彼女は私の正当な妻だ」と主張したので、
 デメテルは敗訴してしまった。

 この古代ギリシャの珍しい法律が、
 そのまま伊弉冉尊説話でも
 「黄泉戸喫(よもつへぐい)。戸=国籍」の
 法律として使われ、
 国民を納得させていたのである。

 従来は、
 ギリシャ神話の高度に知性的な内容に比べて、
 日本神話は、
 「なんと貧弱な子供だましの神話か」と、
 海外で蔑視されてきた。

 しかしこの例の他にも多数の実例が見つかり、
 『記・紀』の内容は
 当時のギリシャと同じ文化と知性をもち、
 それを現実の歴史に当てはめて、
 人の守るべき道を教え、
 高度の政治経済の原則を、
 為政者たち読む者に伝えようとした
 実に優れた教科書であり、
 優れた文学作品だったことがわかったのである。

 『記・紀』は
 「こういう事件は、こう裁くのだ」
 という判例集でもあり、

 『聖徳太子憲法』以前に実在した
 我が国の『憲法』を教える、
 「具体的法令集」でもあったのである。

 だから、
 雲の上というより庶民的といった方がいい恋愛や、
 お家騒動や愚行、暴行が網羅されていて、
 天皇家にとっては、
 決して愉快な文化財ではない。

 しかしそれを
 「帝王学」や「政治学」の教科書として観ると、
 実に赤裸々に人間像を描き出していて、
 正邪善悪の実態と国民の眼を
 強く意識させるようにしてある。

 『記・紀』は対外宣伝用には不向きなほど、
 恥部をさらけ出していて、
 真実こそが生命である歴史記録としても、
 理想的なものというほかない。

 だからそれは実に高い知性の産物である。

 この高さが、
 皇室を現代まで永続させた
 第一の要因だったのだ。

 『記・紀』は本当の意味で
 私たちの「至宝」、人道の『聖書』なのである。


 M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908

2019年5月4日土曜日

神武天皇〔第1代〕と崇神天皇〔第10代〕


《バグダッド下水音頭》「ホントにホントに ご苦労さん」

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 


※『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代
https://matmkanehara.blog.so-net.ne.jp/2019-03-12

※「神聖の系譜」出版協賛のお願い

神武天皇〔第1代〕と崇神天皇〔第10代〕
"はつくにしらしし・すめらみこと"


 《魏書東夷倭傳》



  いわゆる倭人伝の記述の様子によると、

 「倭王」が再び使節を送ったとの記述のある

 魏暦正始4年(243)から

 次の記述の正始8年(247)の4年のうちに
 卑弥呼は死亡したことになる。

 卑弥呼の死後男王を立てたが
 国中が服従しなかったので、
 また卑弥呼の一族の壹與(台与)という
 13歳の女子を王に立てたという。

 文章の流れからすると、
 その壹與(台与)が魏に使節を送ったのが
 正始8年(247)ということらしい。

 よってより正確な推測をすると、
 卑弥呼の死亡は
 紀元245年の前後合わせて3年の間だろう。

 「台与」はサンスクリット語の 
 duyo 〔第二の〕音写で、
 彼女を「第二代」の巫女として、
 連合国家が再構築されたものとみられる。

 しかし、この連合も3世紀の後半
 〔多分紀元270年頃〕から
 4世紀初めにかけての間に海外から
 武力侵攻して来た勢力によって壊滅させられ、
 邪馬臺国(邪馬台国)はじめ
 傍国諸国の独立も存続が
 あやうくなったものとみられる。

 吉野ヶ里遺跡の発掘・再現によって
 明らかになっている長大な「柵」は、
 その外圧から村落を守護するための
 大掛かりな構造物で、
 実際その外圧勢力と戦争を行ったのである。

 遺跡内に埋葬された長躯の遺体は
 その敵の犠牲となった者の死体である。

 その海外から侵攻し来た勢力とは
 「崇神天皇」及びその和名「御真来入日子印恵」、
 垂仁天皇の「伊久米伊理毘古伊佐知」に
 込められている
 「イリ:入・伊理」人の勢力である。

 「イリ」は Ellas 〔ギリシャ〕あるいは
   Ellan 〔ギリシャ人〕の音写で、
 この勢力の祖地が古代にエーゲ海を挟んだ
 東西の地方ギリシャにあったことを示している。

 軍船で侵攻して来た西方軍事力
 ―崇神天皇と「イリ:人」の勢力―

 <日本古典文学大系>

 〇『古事記』崇神天皇 御眞木入日子印恵命
   初国知らしし御眞木天皇
  「はつくにしらしみまきのすめらみこと」

 〇『日本書紀』神武天皇 
        神日本磐余彦天皇
   始馭天下之天皇
  「はつくにしらすすめらみこと」

 〇『日本書紀』崇神天皇 
        御間城入彦五十瓊殖天皇 
   御肇國天皇
  「はつくにしらすすめらみこと」

 〇『常陸國風土記』香島郡
  ・難波長柄豊前大麻馭宇天皇
    〔孝徳天皇〕
  「あめのしたしろしめしすめらみこと」
  ・初國所知美麻貴天皇
    〔崇神天皇〕
 「はつくにしらししみまきのすめらみこと」
 
  
 (1)「初國」「始馭」「肇國」の表記から
   「初(始)めて國を治めた」
         との解釈ができる。

  <大漢和辞典>
 
   知(チ)つかさどる、治める、とりしまる

   馭(ギョ・ゴ)すべる、をさめる、
                          とりしまる
         つかふ、馬を操る、乗り物
         ◎指導する

   肇(テウ・ヂウ)うつ、はじめる・はじめ
          はかる、ひらく、ただす

   "しらしし"は「知る」に
           従った読み方である。

  ★ただし「しら」の語源を下記の用語
   (ギリシャ語)と考えると
   「神武東征」の実相がより
           明確に理解できる。
  「しら」
    (Grk.)συλαω〔sylao〕
         ・イオニア訛り、叙事詩
    (Grk.)συλασκε〔sylaske:しらしき〕
      奪う、掠奪する、
      (特に)倒した敵の武具を剥ぎ取る
    (Grk.)συλαω〔syesis〕掠奪 
    (Grk.)συλαω〔syltor〕掠奪者

  ・「神武東征」によって神武東征勢力は
  登美能那賀須泥毘古(長髄彦)・
      兄磯城・弟磯城から国を奪った。
   これは明らかに
   「掠奪者」「侵略者」を示している。

 (2)神武東征は崇神東征

 『記・紀』双方に
 「はつくにしらす(しし)・すめらみこと」
    を表す
 天皇名として
 神武天皇・崇神天皇が記載されている。

 双方のうちどちらが
   実際「はじめて」なのだろうか。
 
 実際は崇神天皇が「東征」したとする方が
 妥当である。

 その理由は『記・紀』が記述する
 「岡田宮」「他祇理宮」「高嶋宮」の
    背景から明確であり、
 その『記・紀』の編者たちは「侵略・掠奪」の
 悪名を除けるためか、または
 自分たちの勢力がより古くから当地
   (大和・奈良県)に
 渡来していたことを示すために
 「神武東征」との構成を創り上げたのである。

 ※ところが、
  それとは違う重大な事情があることが判明した。
  それを物語っていたのが”八咫烏”伝承である。

 (3)「崇神東征」勢力と「神武天皇」勢力の関係
 
 a.多氏(神武天皇)

  「崇神東征」の頃(295~315年)には
  すでに大和盆地におり、
  登美族〔登美能那賀須泥毘古〕や
  磯城族〔兄磯城・弟磯城〕、また
  饒速日命族〔物部氏〕と共に
  盆地の南(明日香村、五条市)から
      北(奈良市)に
  別れて統治制〔部族制〕に入っていた。
 
  そのうちの多氏系列の人々が、
  崇神東征軍の正面に当たってきたので、
  彼らに同道するとの計略で、
  その進行路を東方へ採らされたのである。

  東征軍が
      大和盆地へ進攻する正面になったのは、
  この度は「登美族」となった。

  その結果、
  登美能那賀須泥毘古一族と
      彼に味方した兄磯城は
  滅亡の憂き目に会ってしまった。
  榛原町地図にみると桜井市との境界に
  鳥見(「とび」という)山(940m)がある。

  「鳥見」は「トミ」で「延喜式」神名帳に載る
  「築弥神社」名と同根で、
  鳥見山に代表されるように
      登美族の領域であった。 
  よって
  同領域を守るため登美族は反抗せざるを
    得なかった。

  しかも背後には
  崇神東征軍に味方した味方した多氏があった。

  多氏は崇神東征軍と同盟したのである。

  その経緯を伝えるのが
      「ヤタガラス」伝承である。

 b.『記・紀』における多氏に対する対応

  その「東征」成功の結果、
  「崇神」勢力は多氏の同盟対応に感謝し、
  同氏がすでに以前より
      大和盆地に定着していたことを考慮し、
      崇神天皇(第10代)より古い
  朝廷権力〔天皇:てんのう〕として
  第1代神武天皇から
     第8代〔孝元天皇〕までを
  多氏の履歴を基に設け、
     神武朝と崇神朝との継ぎとして
     第9代開化天皇を挿入したのである。

  実際『古事記』の編纂を命じた天武天皇は
  息長氏〔ギリシャ〕系であるし、
  命を受けて実務を担った
      太安万侶、稗田阿礼も
  ギリシャ系〔天津彦根〕の後裔であった。

 c.「てんのう(天皇)」の始まり

  「天皇」の発音は「テンコウ」であり、
  これは遣隋使以降、シナの漢字資料が
  移入されてからの使用である。

  本来「てーのう」がその始まりで、
  ギリシャ語に依拠している。
 
  その原初は登美族と
      同族のアズミ(阿曇)族の
  「天孫」伝承「降臨」と係わっている。

  ○天皇「てーのう」
  (Grk.)Θεο-νοευ〔theo-noeu:神、目に留める〕
    神が顕れる

   「天孫降臨」※「天孫」とは天照大神の孫
    〔邇邇芸命〕が地に降った「天孫降臨」

  ※現人神、顕人神
  ※「テンノウ」との発音も漢発音の影響

  ○天皇「てん・のう」
   (Grk.)Theo_n.oeu<テンオウ>


 M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908