2019年6月6日木曜日

古代に軍船によって襲来した侵略王権の実相

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金原政敏:歴史研究家


歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

古代に軍船によって襲来した侵略王権の実相
  ―大和王朝と崇神天皇の系譜―

 当講座は過去、時により
『古事記』を主題にしてきました。

その編者太安麻侶などは「大和王朝」の
中心的部族であり、 
その祖国がヘレニズムの国々、
つまりギリシャに係わる人々でした。

その「大和王朝」の始まりは
崇神天皇でありますが、
今回はその族類の系譜を明確に
解析申し上げるのが課題であります。

この勢力は軍船によって渡来しましたが、
その「軍船」が「天鳥船」であり、
その船子たちはまた兵士の役割をも
果たしたのでした。

また彼らの主祭神は「須佐之男命」でしたが、
これはゼウス神の別称であります。

彼等は紀元4世紀の初めに来航し、
九州方面から瀬戸内海を東上の後
近畿地方を征圧し、
古墳時代から奈良時代の
日本の政治的中枢にいて支配しました。
 
その族類の来歴を『古事記』などの
史料などに即してご説明申し上げます。

古代に軍船によって襲来した侵略王権の実相
―大和王朝と崇神天皇の系譜―

1.大和「ダイワ」の語義
2.崇神天皇の系譜
3.日子国の「ヒコ」と「オケ(意祁・袁祁)」
4.豊木入日子命〔豊城入彦命〕の後裔
5.天之菩卑命〔天菩比命・天穂日命〕の系譜
6.天津日子根命〔天津彦根命〕の系譜
7.天鳥船命の真相




M.K記(責)  

崇神天皇と「大和」

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金原政敏:歴史研究家


歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 
古代に軍船によって襲来した侵略王権の実相
―大和王朝と崇神天皇の系譜―

崇神天皇と「大和」

「神武天皇の東征」は「崇神天皇東征」 との見解を

 これまでの「行宮」の説明から指摘強調したい。


岡田宮の付近には

「シマヅ:島津」との地称があり、

「尊崇する、崇拝する」の語義であった。

次の多祁理宮の
「タキリ」は「哮」で「大声で叫び」ながら
「神に呼びかける、祈り求める」であると
  紹介した。

これらの意義は「神を尊敬する」のであり、
第10代天皇の御名「崇神」と同義である。

この証左から当該者の素性は明白である。

さらに「大和」を考慮すればさらに確信となろう。
同用語は音読み訓読みのいずれにおいても
「ヤマト」とは読めない。

つまり当て字である。

「ヤマト」は前に紹介したヘブライ人の用語で
「海の人」の語義である。

その背景は後に解説する。

崇神天皇の勢力が奈良盆地に入来する以前から
同地に勢力のあった人々の用語である。

「大和」の可能な読み音は「ダイワ」あるいは
「オウワ」であるが、
後者はすでに「大倭」として紹介した。

つまり「ダイワ」のみが
この「崇神」勢力集団と係わる呼称である。

その「ダイワ」はギリシャ語における
theo-philes〔神-愛する〕の音写で
「神を尊崇する」との語義である。

つまり「崇神」である。
Theo〔神〕は
インド・ヨーロッパ語圏の祖語を共通にし、
サンスクリット語の deva 、
ラテン語の divvas、また
英語の divine である。

Theo-philes は
ラテン語に dei-fico、deas-facio となり、
「神として崇拝する」である。

ドイツ語では deifizieren〔神として崇める〕、
英語で deify〔神聖視する〕ともなり、
「ダイワ」とは「神として崇拝(尊崇)する」
あるいは「神の崇拝者」を表わしており、
崇神天皇の勢力の慣習を現わしている。

《「大和」の語義》

大和「タイワ」「ダイワ」
=θεο=(Sk.)devas<神>=(Lat.)divus神

(Grk.)θεο-φιλης(theo-philes)、 
θεο-φιλως(theo-philos)
神を愛する

(Lat.)dei-fico〔deus-facio〕
 神にする、神に祭る、神として崇拝する
deicola〔deus-colo〕神の崇拝者

(Ger.)deifizieren 神として崇める(祭る) 
Deifikation 神として尊崇すること、 神(格)化 

(Eng.)deify 神聖視する、神にする(祭る)
deification 神聖視、神(格)化「名詞形」

※「ダイワ」とは「神として崇拝(尊崇)すること」
あるいは「神の崇拝者」を表しており、
崇神天皇(『記・紀』の第十代天皇)の崇神と同義である。

和:"ワ"、"カ" phi(φι) 、fi、co、fyの音写

〇崇神 彼等が「神武東征」の主役である。
東征は神武天皇の集団が果たした史実ではない。

➀岡田宮(福岡県遠賀郡芦屋町)
芦屋「アシヤ」
(Grk.)οσια(osia、イオニア訛り)
神の掟
öσιος(osios)
敬神の、聖な信心深い、
〇神を祀ること、祭儀、祭式

島津・島門「シマヅ」「シマト」
(Grk.)αυμαστης(thaymasths)
賞賛者、尊崇者、崇拝者
θαυμαζω(thaymazwό)
θαυμασω(thaymaswό)
敬意を表す、尊敬する、尊崇する
尊ぶ、〇驚く、驚嘆する
θαυματος(thaymatos)
θαυμα(thayma)
 驚き、驚嘆、不思議

鞍手「クラテ」「クラジ」
(Grk.)καλητωρ(kalhtwόr)
(大事で)呼び叫ぶ人<神に祈る人、祭官>
 καλεω(kalewό)
(神を)呼び出す、神の名を呼ぶ、
呼ぶ、呼び寄せる、招く、呼びかける

②多祁理宮・埃宮
(広島県廿日市市廿日市字高洲/廿日市峰高)
多祁理「タケリ」:
"咆・たけり"大声でわめき叫ぶこと
"たけ・る"大声で叫ぶ、吠え叫ぶ
(Grk.)θεο-κλητος(theo-klytos)
 神に呼びかける
 θεο-κλητεω(theo-klyteo)
  神に呼びかける、祈る、祈りを求める
  καλεω(kaleωό)
  (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ 

③高嶋宮
(岡山県岡山市西大寺一宮、安仁神社/ 宮城山<鶴山>)
倉敷「クラシキ」
(Grk.)κλησις(klisis)
 呼ぶこと、呼びかける、呼び名
καλεω(kalewό)
 (神を)呼び出す、神の名を呼ぶ 
κελευσμα(kelusma)
 呼び声、掛け声、命令

※「神武東征」の際の駐留地(宮)や
その経路にみられる諸地名には
「神を尊崇すること」に係わる遺称が
確実にみられ、それらがギリシャ語に
依拠していることから、
この東征がインド系(ヤータヴァ族・阿曇族)の
神武天皇によってなされた事績ではなく、
ギリシャ、イオニア系などの集団(種族)に
よってなされたことが明白である。

「神を尊崇すること」つまり
「神を呼び掛ける」ことは「崇神」である。

※οσια(osia、イオニア訛り)神の掟
 Öσιος(osios)敬神の、聖な、信心深い
神を祀こと、祭儀、祭壇

忍「オシ」天忍日命:あまのおしひこのみこと
   
『古事記』<天孫降臨>
故爾に天忍日命、天津久米命の二人~。
其の天忍日命〔此は大伴連等の祖〕
   
『日本書紀』<天孫降臨>
時に大伴氏の遠祖天忍日命.
久目部の遠祖天槵津大久目を師ゐて~。

『古事記』<神武東征>
爾に大伴連等の祖、道臣命、久米直の祖、
大久米命の二人~

『日本書紀』<神武東征>
是の時に大伴氏の遠祖日臣命、
大久目を師ゐて

「神武東征」に軍を統帥した大伴氏の祖、
日臣命の遠祖は天忍日命であり、
その祖語が「敬神」に係ることは、
神武東征(実際は崇神王朝の東征)は、
大伴氏すなわち
(Grk.)Εὐθύδημος、
(Eng.)Euthydemos
  (エウテュデモス) 氏の末裔が
統率して行った事績である。

M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908




天鳥船の真相:天鳥船・天鳥楠船 -三段橈船ー


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金原政敏:歴史研究家


歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

古代に軍船によって襲来した侵略王権の実相

    ―大和王朝と崇神天皇の系譜―
天鳥船の真相:天鳥船・天鳥楠船   -三段橈船ー

『古事記』上巻《神々の生成》

「鳥の石楠船神、亦の名は天鳥船と謂ふ」とあり、
出雲の国譲り伝承で
〇建御雷神/大国主の国譲り
「爾に天鳥船神を建雷神に副へて遣わしたまひき」
とある。

※鳥は天空をも海上をも通うものであるから
鳥の語が冠せられいる。
上代において船は雷と密接な関係があり
雷は船に乗って天空と地上を往来するものと
信ぜられていた。
建御雷神に天鳥船神を副へて遣わしたというもの、
そうした信仰が基盤となっている。

※楠で造った丈夫な船の意。
鳥の語がついているのは、
鳥は天空をも海上をも通うものであるから。
上代においては船と雷神とが密接に結びつけられている。
『霊異記』の道場法師伝参照
建雷神はそこでは武神として描かれ、
「天鳥船神」にはそれを授ける〔副へる〕性格がみえる。

『日本書紀』《第五段 本文》
(一書)次に蛭児を生む。
已(すで)に三歳になるまで、脚(あし)猶(なお)し立たず、
故、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載せて、
風の順(まま)に放ち棄つ。
次に素盞鳴尊を生みまつります。
(一書)次に鳥磐櫲樟船を生む。
※鳥は地上・海上を自由に飛ぶので
交通の手段に冠せられる。
磐は堅固なものの名称。
櫲樟はクスノキ。
大木となるので舟を造る材として使われた。
『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)の
播磨風土記逸文などにその例がある。
天鳥船は出雲の国譲りの説話にも
交通の手段として使われている。
楠で作られた丸木舟は、
弥生ー古墳時代にかけて、
日本の中部から関西にかけて発見されている。
磐という語は、
単に堅固という意味の形容ではなく、
現存の岩船の信仰のように、
神が石の舟に乗って来る観念が
ここに重複しているのかも知れない。
同呼称の「トリ:鳥」はギリシャ語のτρι(tri)
〔英語のthree〕の音写で「三の」「三段の」を表わす。
「鳥船」とは「三段船」

 「イワクス:石楠・磐櫲樟」も
οιαξ(aiakos)〔舵、舵柄〕の音写である。
「舵船、舵取船」となるが、
これは「舵付三段橈船」で、
いわゆる古代ギリシャや地中海東岸域で
盛んであった「軍船」の称である。
三段橈船は「多祁理宮」でふれた。

※但し、単に楠船とある場合は
「木船」giš-mā<阿曇語・シュメル語> が祖語で
勝馬(志賀島)杵島郡:鹿島市(佐賀県)
この勢力集団の重要な軍備である。



ギリシャ語での同語はτρι-ηρεος(tri-hreos)、
τρι-ηρης(tri-hris) などと表記される。



イオニア訛り τρι-ηρευς(tri-hreus)
  τρι-「三の」~「三段の」 ηρης 「橈柄」「櫂」

「延喜式」神名帳:
備後国〔広島県東部〕品治郡に載る
「多理比理神社」名の「タリヒリ」は同語の音写であるし、
品治郡(現)広島県福山市駅家町周辺
「ホムヂ」(旧名品遅郡「ホムチ」)
(現)福山市駅家坊寺の「坊寺」/法師村(江戸時代)

(Grk.)Ημαθιη(Hmathih/Emathiē) マケドニアの呼称<
ここではマケドニア人>    
江良(福山市駅家江良)
「エラ」ερετμον(eretmon)櫂 ηρης(eriş)橈/櫂
ηρεες(erees)橈/櫂

「箆取神社」〔倉敷市連島〕の「ヘラ:箆」も
そのhres、hris音写で、神社名は「橈取」、
つまり「船子」で古来船乗りたちの信仰が
篤かった由縁もそこにあり、理解できる。

ギリシャの三段橈船は、
漕ぎ手が船眩左右に百人近くが階段状に並び、
長い船外に突出する橈(櫂)を一本ずつ担って
指令者の合図(笛あるいは太鼓)に合わせて
漕ぐもので、速く漕げば速度は増す。
その用員は船が大きくなると二百人位、
小さい船でも五十人は位ほどが運行に使われた。

当該「天鳥船」の漕ぎ手たちはまた戦士でもあったはず。 

東征に当たっての船数はそう多くはなく、
二、三船にすぎなかったろう。
 
つまり戦闘兵数も多くて
三百人程度と少人数であったとみられる。

 そうした小規模の軍団で
よく多数の兵士を用意できる「敵」を征し得たものだ。
そこには武器の違いがあったはずである。

本稿では詳しい解釈は除くが、
当軍団は鉄製の武器を使用したのである。

同時代在来の勢力の使用する
金属武器は青銅製のもで、
その効果において絶大な戦力差がある。
鉄の精製や鉄鍛冶のギリシャの技術は「ふいご」にあった。

あの安仁神社〔高嶋宮〕の所在地名「藤井」は
phusi〔吹く、ふいご〕の音写で、
同地で鉄剣などを製作したと推測される。

「高嶋」を「コウシマ」とするのは
kausomai〔熱くする〕、単に「コウ」であっても
kau と同義であるからである。

『日本書紀』は同所で「兵倉を蓄えて」といっている。

 世界の歴史2 ギリシアとローマ
村川堅太郎 責任編集 中央公論社 119頁図より
三段橈船を漕ぐ人たち。



この時代の軍艦は図のように三段に並んだ
漕者により航海した。
船の長さは約45㍍、幅は5㍍。
乗組員は200人くらいだった。
前5世紀半ばの大理石浮彫り

三段櫂船

 
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※「古代史探求館」
秦王国の謎が解けるか 福山市御領遺跡
  

 《軍船》
三段櫂船の船体は松の木の板で造られていましたが、
竜骨のところだけはオーク材が使用されていました。
この竜骨は船尾でそり返っていて、
その先に渦巻き形の装飾や”白鳥の首”が
つけれれていました。

 これに対して、船首部分の左右の舷には、
大きな目が描かれていました。
この目は、災いや邪悪な霊を追い払うためのお守りです。
さらに、舳先の先端部には、敵の船に体当たりして
その横っ腹に穴をあけるための、
衝角と呼ばれる突起が取り付けてありました。

三段櫂船には、
1本のマストと大きな長方形の帆1枚
ついていましたが、これらは、
遠洋航海のときに使用されたもので、
戦闘が始まるとマストや帆は取り除かれました。

また、船の進行方向を決定したのは
船尾の両舷の取り付けられていた、
櫓舵と呼ばれる2本の大きな櫂です。

1隻の三段橈船に乗船したのは200人の兵員で、
船長を筆頭に、170人の漕ぎ手、水夫、重装歩兵、
操舵手、見張り、士官と下士官たちなどがいました。

《三段橈船の乗組員》
三段橈船の170本の櫂は、
笛吹きが吹く拍子に合わせて動かされました。
この拍子を漕ぎ手に伝えたのが、見張り役でした。
櫂の漕ぎ手は、
主に市民の中でも最下層に属する労
働者階級の人間でしたが、居留外人などが
加わることもありました。
また、三段櫂船の漕ぎ手が不足すると、
任務を果たせば自由の身分にするという約束で、
奴隷を漕ぎ手として集めました。
1隻の三段櫂船には200人の乗組員がいたので、
それが200隻となると4万人の人員が必要でした。

《三段橈船の漕ぎ手》
両舷に86人ずつ分かれて3段に並びました。
もっとも高い位置にある3段目には、
両舷とも31人の漕ぎ手が、
その下の2段目と1段目には、
それぞれの舷に27人の漕ぎ手がいました。
これらの漕ぎ手は、互い違いに並んで、
各段ごとに長さの違う櫂を操りました。

M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908