2019年6月6日木曜日

天鳥船の真相:天鳥船・天鳥楠船 -三段橈船ー


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金原政敏:歴史研究家


歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

古代に軍船によって襲来した侵略王権の実相

    ―大和王朝と崇神天皇の系譜―
天鳥船の真相:天鳥船・天鳥楠船   -三段橈船ー

『古事記』上巻《神々の生成》

「鳥の石楠船神、亦の名は天鳥船と謂ふ」とあり、
出雲の国譲り伝承で
〇建御雷神/大国主の国譲り
「爾に天鳥船神を建雷神に副へて遣わしたまひき」
とある。

※鳥は天空をも海上をも通うものであるから
鳥の語が冠せられいる。
上代において船は雷と密接な関係があり
雷は船に乗って天空と地上を往来するものと
信ぜられていた。
建御雷神に天鳥船神を副へて遣わしたというもの、
そうした信仰が基盤となっている。

※楠で造った丈夫な船の意。
鳥の語がついているのは、
鳥は天空をも海上をも通うものであるから。
上代においては船と雷神とが密接に結びつけられている。
『霊異記』の道場法師伝参照
建雷神はそこでは武神として描かれ、
「天鳥船神」にはそれを授ける〔副へる〕性格がみえる。

『日本書紀』《第五段 本文》
(一書)次に蛭児を生む。
已(すで)に三歳になるまで、脚(あし)猶(なお)し立たず、
故、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載せて、
風の順(まま)に放ち棄つ。
次に素盞鳴尊を生みまつります。
(一書)次に鳥磐櫲樟船を生む。
※鳥は地上・海上を自由に飛ぶので
交通の手段に冠せられる。
磐は堅固なものの名称。
櫲樟はクスノキ。
大木となるので舟を造る材として使われた。
『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)の
播磨風土記逸文などにその例がある。
天鳥船は出雲の国譲りの説話にも
交通の手段として使われている。
楠で作られた丸木舟は、
弥生ー古墳時代にかけて、
日本の中部から関西にかけて発見されている。
磐という語は、
単に堅固という意味の形容ではなく、
現存の岩船の信仰のように、
神が石の舟に乗って来る観念が
ここに重複しているのかも知れない。
同呼称の「トリ:鳥」はギリシャ語のτρι(tri)
〔英語のthree〕の音写で「三の」「三段の」を表わす。
「鳥船」とは「三段船」

 「イワクス:石楠・磐櫲樟」も
οιαξ(aiakos)〔舵、舵柄〕の音写である。
「舵船、舵取船」となるが、
これは「舵付三段橈船」で、
いわゆる古代ギリシャや地中海東岸域で
盛んであった「軍船」の称である。
三段橈船は「多祁理宮」でふれた。

※但し、単に楠船とある場合は
「木船」giš-mā<阿曇語・シュメル語> が祖語で
勝馬(志賀島)杵島郡:鹿島市(佐賀県)
この勢力集団の重要な軍備である。



ギリシャ語での同語はτρι-ηρεος(tri-hreos)、
τρι-ηρης(tri-hris) などと表記される。



イオニア訛り τρι-ηρευς(tri-hreus)
  τρι-「三の」~「三段の」 ηρης 「橈柄」「櫂」

「延喜式」神名帳:
備後国〔広島県東部〕品治郡に載る
「多理比理神社」名の「タリヒリ」は同語の音写であるし、
品治郡(現)広島県福山市駅家町周辺
「ホムヂ」(旧名品遅郡「ホムチ」)
(現)福山市駅家坊寺の「坊寺」/法師村(江戸時代)

(Grk.)Ημαθιη(Hmathih/Emathiē) マケドニアの呼称<
ここではマケドニア人>    
江良(福山市駅家江良)
「エラ」ερετμον(eretmon)櫂 ηρης(eriş)橈/櫂
ηρεες(erees)橈/櫂

「箆取神社」〔倉敷市連島〕の「ヘラ:箆」も
そのhres、hris音写で、神社名は「橈取」、
つまり「船子」で古来船乗りたちの信仰が
篤かった由縁もそこにあり、理解できる。

ギリシャの三段橈船は、
漕ぎ手が船眩左右に百人近くが階段状に並び、
長い船外に突出する橈(櫂)を一本ずつ担って
指令者の合図(笛あるいは太鼓)に合わせて
漕ぐもので、速く漕げば速度は増す。
その用員は船が大きくなると二百人位、
小さい船でも五十人は位ほどが運行に使われた。

当該「天鳥船」の漕ぎ手たちはまた戦士でもあったはず。 

東征に当たっての船数はそう多くはなく、
二、三船にすぎなかったろう。
 
つまり戦闘兵数も多くて
三百人程度と少人数であったとみられる。

 そうした小規模の軍団で
よく多数の兵士を用意できる「敵」を征し得たものだ。
そこには武器の違いがあったはずである。

本稿では詳しい解釈は除くが、
当軍団は鉄製の武器を使用したのである。

同時代在来の勢力の使用する
金属武器は青銅製のもで、
その効果において絶大な戦力差がある。
鉄の精製や鉄鍛冶のギリシャの技術は「ふいご」にあった。

あの安仁神社〔高嶋宮〕の所在地名「藤井」は
phusi〔吹く、ふいご〕の音写で、
同地で鉄剣などを製作したと推測される。

「高嶋」を「コウシマ」とするのは
kausomai〔熱くする〕、単に「コウ」であっても
kau と同義であるからである。

『日本書紀』は同所で「兵倉を蓄えて」といっている。

 世界の歴史2 ギリシアとローマ
村川堅太郎 責任編集 中央公論社 119頁図より
三段橈船を漕ぐ人たち。



この時代の軍艦は図のように三段に並んだ
漕者により航海した。
船の長さは約45㍍、幅は5㍍。
乗組員は200人くらいだった。
前5世紀半ばの大理石浮彫り

三段櫂船

 
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※「古代史探求館」
秦王国の謎が解けるか 福山市御領遺跡
  

 《軍船》
三段櫂船の船体は松の木の板で造られていましたが、
竜骨のところだけはオーク材が使用されていました。
この竜骨は船尾でそり返っていて、
その先に渦巻き形の装飾や”白鳥の首”が
つけれれていました。

 これに対して、船首部分の左右の舷には、
大きな目が描かれていました。
この目は、災いや邪悪な霊を追い払うためのお守りです。
さらに、舳先の先端部には、敵の船に体当たりして
その横っ腹に穴をあけるための、
衝角と呼ばれる突起が取り付けてありました。

三段櫂船には、
1本のマストと大きな長方形の帆1枚
ついていましたが、これらは、
遠洋航海のときに使用されたもので、
戦闘が始まるとマストや帆は取り除かれました。

また、船の進行方向を決定したのは
船尾の両舷の取り付けられていた、
櫓舵と呼ばれる2本の大きな櫂です。

1隻の三段橈船に乗船したのは200人の兵員で、
船長を筆頭に、170人の漕ぎ手、水夫、重装歩兵、
操舵手、見張り、士官と下士官たちなどがいました。

《三段橈船の乗組員》
三段橈船の170本の櫂は、
笛吹きが吹く拍子に合わせて動かされました。
この拍子を漕ぎ手に伝えたのが、見張り役でした。
櫂の漕ぎ手は、
主に市民の中でも最下層に属する労
働者階級の人間でしたが、居留外人などが
加わることもありました。
また、三段櫂船の漕ぎ手が不足すると、
任務を果たせば自由の身分にするという約束で、
奴隷を漕ぎ手として集めました。
1隻の三段櫂船には200人の乗組員がいたので、
それが200隻となると4万人の人員が必要でした。

《三段橈船の漕ぎ手》
両舷に86人ずつ分かれて3段に並びました。
もっとも高い位置にある3段目には、
両舷とも31人の漕ぎ手が、
その下の2段目と1段目には、
それぞれの舷に27人の漕ぎ手がいました。
これらの漕ぎ手は、互い違いに並んで、
各段ごとに長さの違う櫂を操りました。

M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908


 

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