2019年5月14日火曜日

神武東征に登場する「ヤタガラス(八咫烏)」とは?

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

 「神武東征に登場する「ヤタガラス(八咫烏)」とは?

  「八咫烏」表記は珍しく
 『記・紀』とも同じに表記されています。
 とはいえ同名はなかなか理解が難しい名称です。

 漢字表記の意味は端的に「八尺の烏」で
 『古事記』序文がいうとおり「大烏」です。
 しかし現実にはそんな「烏」などは存在しないし、
 軍隊を案内する筈もありません。

 「ヤタガラス」との
 単語の当て字されているとしかみえません。

 当講座は遠征軍が大和盆地に侵入した経路を
 明らかにし、関連の各語の語義を明白にします。

 初めて登場した姿は
 「烏:こからす」ですが、
 その後裔が関係した諸社及び
 その氏族名は
 「鴨:カモ」となっていて不思議であります。

 1.『古事記』の八咫烏〔序文の大烏〕

 2.『日本書紀』の八咫烏

 3.神道大事典の「ヤタガラス」
  
    
 4.『延喜式神名帳』 大和国宇陀郡
    八咫烏「ヤタカラスノ」「ヤタ」
   「神道大事典」ヤタガラス神社
    奈良県宇陀郡伊那佐村大字高塚
    祭神:鴨建角身命
   「全国神社名鑑」八咫烏神社(やたがらす)
    奈良県宇陀郡榛原町高塚 
    祭神:建角身命

 5.『新撰姓氏録』
    加茂縣主神魂命孫武津之身之後也
    ○鴨縣主 鴨津見命「ツノミ」
    ○祝部 同祖建角身命之後也

  6.『延喜式神名帳』 京都府愛宕郡
    久我神社「クカ」
    
  7.『延喜式神名帳』 京都府愛宕郡
    加茂別雷神社「カモワケイカツチノ」上社
    加茂御祖神社「カモノミオヤノ」下社

  8.『古事記』の「尾生(人)」
    高鴨神社〔御所市鴨神〕、久留野〔五条市〕
  
  9.阿智賀〔下市町〕、柳〔吉野町〕、
   栗野〔大宇陀町〕、栗谷〔榛原町〕、
   榛原神社・大兵主神社〔桜井市〕、
   大田〔桜井市〕、太田市〔橿原市〕、
   柳本〔天理市:崇神天皇陵〕
  10.『和名類聚抄』美濃国各務郡大榛郷、各務郷

  11. 『和名類聚抄』甲斐国山梨郡加美郷
          <小笠原氏〔加々美〕>

  12.「ヤタガラス」「タケツミノ」「カモガミ」
    などの語義

  13.「尾生」の別表記は「多」

  14.神武天皇・崇神天皇
   〔「始めての天下を治めた」との二人の天皇〕
   の相互関係

M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908




『記・紀』の「ヤタガラス」

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

 「『記・紀』の「ヤタガラス」

 1.『古事記』の「ヤタガラス」

 (1)熊野山よりの山中:吉野河
 於是亦 高木大神之命以覺白之 天神御子 
 自此於奧方莫便入幸 荒神甚多 
 今自天遣八咫烏 故 其八咫烏引道 
 從其立後應幸行 故隨其敎覺 
  從其八咫烏之後幸行者 
 到吉野河之河尻時 作筌有取魚人 
 爾天神御子問汝者誰也 答曰僕者國神 
 名謂贄持之子【此者阿陀之鵜飼之祖】 
 從其地幸行者 生尾人自井出來 其井有光 
 爾問汝誰也 答曰僕者國神 
 名謂井氷鹿【此者吉野首等祖也】 即入其山之 
 亦遇生尾 此人押分巖而出來 爾問汝者誰也 
 答曰僕者國神 名謂石押分之子 
 今聞天神御子幸行故 參向耳【此者吉野國巣之祖】
 自其地蹈穿越幸宇陀 故曰宇陀之穿也

 是にまた、高木の大神の命以ちて、
 覺(さと)して、
 「天つ神の御子、此より奧つ
  方へ便(すなわ)ち入り幸すこと莫(なか)れ。
    荒ぶる神、甚(いと)多し。
  今、天より八咫烏(やたがらす)を遣す。
  故、其の八咫烏引道(みちび)かん。  
    其の立てる後より幸行(いでま)すべし」
 と白しき。

 故、其の敎え覺しの隨(まにま)に、
 其の八咫烏の後より幸行(いでま)せば、
 吉野の河の河尻に到りし時に、
 筌(うえ)を作りて魚を取る人有り。
 
 爾くして天つ神の御子、「汝は誰ぞ」と問いき。
 答えて曰く、
 「僕は國つ神。
  名は贄持(にえもつ)の子と謂う
 【此は阿陀(あだ)の
  鵜飼(うかい)の祖(おや)】」。

 其の地より幸行(いでま)せば、
 尾(お)生(お)いたる人、井より出で來たり。
 其の井に光有り。 

 爾くして、「汝は誰ぞ」と問いき。 
 答えて曰く、
 「僕は國つ神、名は井氷鹿(いひか)と謂う
  【此は吉野の首(おびと)等の祖(おや)】」。

 即ち其の山に入れば、
 また尾生いたる人に遇いき。
 此の人、巖(いわ)を押し分けて出で來たり。

 爾くして、「汝は誰ぞ」と問いき。 
 答えて曰く、
 「僕は國つ神、
  名は石押分(いわおしわけ)の子と謂う。
  今、天つ神の御子、幸行(いでま)すと聞くが
  故、に參い向う耳(のみ)
 【此は吉野の國巣(くず)の祖】」。
 
 其の地より蹈み穿(うが)ちて
 宇陀(うだ)に越え幸しき。 
 故、宇陀の穿(うがち)と曰う。

 (2)序文の大烏
  神倭天皇 經歴于秋津嶋 
 化熊出爪 天釼獲於高倉 生尾遮徑 
  大烏導於吉野 
 列攘賊 聞歌伏仇 即覺夢而敬神祇 
 所以稱賢后 望烟而撫黎元 於今傳聖帝 
  定境開邦 
 制于近淡海 正姓撰氏 勒于遠飛鳥 
  雖歩驟各異  
 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 
 照今以補典敎於欲絶

 神倭(かむやまと)の天皇(すめらみこと)、
 秋津嶋を經歴したまいき。 
 化熊(かゆう)爪を出(いだ)して、
 天釼(てんけん)を
 高倉(たかくらじ)に獲(え)、
 生尾(しょうび)徑(みち)を
 遮(さえぎ)りて、
 大烏(たいう)吉野に導きき。 
 (まい)を列(つら)ね賊(あた)を
 攘(はら)い、
 歌を聞き仇(あた)を伏(したが)えたまいき。 
 補(おぎな)わずということ莫(な)し。

 2.『日本書紀』の「ヤタガラス」

 (1)熊野の荒坂津~
 【神武天皇 即位前紀 戊午年六月 原文】
 
 于時 天皇適寐 忽然而寤之曰 予何長眠若此乎
 尋而中毒士卒 悉復醒起 既而皇師 欲趣中洲 
 而山中嶮絶 無復可行之路 
 乃棲遑不知其所跋渉 時夜夢 
 天照大神訓于天皇曰 朕今遣頭八咫烏 
 宜以爲郷導者 果有頭八咫烏 自空翔降 
 天皇曰 此烏之來 自叶祥夢 大哉 赫矣 
 我皇祖天照大神 欲以助成基業乎 是時 
 大伴氏之遠祖日臣命 帥大來目 督將元戎 
 蹈山啓行 乃尋烏所向 仰視而追之 
 遂達于菟田下縣 因號某所至之處 曰菟田穿邑
 【穿邑 此云于介知能務羅】

 時に、天皇(すめらみこと)
 適(よ)く寐(みね)せり。 
 忽然(たちまち)にして寤(さめ)て曰く、
 「予(われ)何ぞ若此(かく)は長く眠りたるや」。 
 尋(つ)ぎて毒に中(あた)りし士卒、
 悉く復(また)醒(さ)め起きき。 
 既にして皇師(みいくさ)中洲(うちつくに)に
 趣(おもむ)かんと欲す。 
 而(しか)るに山の中嶮絶にして
 復(また)行くべき路無し。 
 乃ち棲遑(しじま)いて
 其の跋(ふ)み渉(わた)る所を知らず。 
 時に夜に夢(ゆめみ)る。 
 天照大神、天皇に訓(おし)えて曰く、
 「朕、今、頭八咫烏(やたのからす)を
   遣(つかわ)す。宜(よろし)く以ちて
   郷導者(くにのみちびきひと)と爲すべし」。
  果して頭八咫烏有りて、空より翔け降る。
 天皇曰く、
 「此の烏の來ること、
   自ずと祥(よ)き夢に叶(かな)えり。
   大きなる哉(かな)、赫(さかり)なるかな。
   我が皇祖(みおや)天照大神、
   以ちて基(もとい)の業(わざ)を
   助け成さんと欲せるか」。 
  是の時に、
  大伴氏(おおとものうじ)の遠祖(とおつおや)
  日臣命(ひのおみのみこと)、
  大來目(おおくめ)を帥(ひき)いて、
  元戎(おおつわもの)に
  督將(いくさのきみ)として、
  山を蹈(ふ)み啓(みちわ)け行きて、
  乃ち烏の向う所を尋ね、仰ぎ視て之を追う。 
  遂に菟田下縣(うだのしもつこおり)に達す。 
  因りて某の至る處を號(なづ)けて
  菟田穿邑(うだのうがちのむら)と曰う。
 【『穿邑』、
   此を于(う)介(が)知(ち)
   能(の)務(む)羅(ら)と云う】

 (2)【神武天皇 二年春二月】
 
 復以劒根者 爲葛城國造 
 又頭八咫烏 
 亦入賞例 
 其苗裔 即葛野主殿縣主部是也

 復劒根という者以って葛城國造とす。 
 又頭八咫烏、亦賞の例に入る。
 其の苗裔、即ち葛野主殿縣主部是なり。

M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908

神道大辞典&山城国風土記

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

 「神道大辞典&山城国風土記

 3.「神道大辞典」ヤタガラス・八咫烏

 (1)神武天皇の中洲御平定に當たり、
   皇軍が山中の險路に迷うた時、
   天照大神の勅命を以て嚮導のために
   遣わされた神。
   ~山路嶮絶、
   越え行く方角が分からないので
   躊躇していると、其の夜、
   天照大神の御夢告に、
   いま八咫烏を遣すから、
   それを道しるべとせよ、と仰せられた。
   翌日になると果たして八咫烏が空から
   飛び降ったので、
   天皇は
   「此烏之來、自叶祥夢、大哉赫矣、
    我皇祖天照大神、欲助成基業乎」と
   仰せられた。
   是の時、大友氏の遠祖日臣命が、
   大來目隊の統率者であったが、
   烏の向ふままに導かれて
   山を踏んで啓行し、遂に兎田の下縣に
   達することを得たと記している。
   ~
   『山城風土記』は
   八咫烏とは賀茂別雷神命の母なる
   玉依姫の父賀茂建角身命の事で、
   初め日向の曾の峯に天降り、
   神武天皇の東征に及んで先駆し、
   大倭の葛木山の峯に宿り、
   のち漸次に移って
   山代国岡田の賀茂に至り、
   山代川に随って葛野河と賀茂河との
   合流点から賀茂川を遡江し、
   久我國の北山の基に鎮り坐したと記し、
   『姓氏録』には之を神魂命の孫で、
   化して大烏の如く、
   朔り飛んで皇軍を導き奉ったので、
   天皇その有功を嘉し、
   特に厚く褒賞し給うたと記している。
   (略)

 (2)八咫烏神社:ヤタガラスジンジャ
   http://www.yatagarasujinja.net/
   奈良懸宇陀郡伊那佐村大字高塚に鎮座。
   懸社。鴨建角身命を祀る。
   神武天皇中洲征平の時、この神、
   八咫烏となって虚空より翔飛し
   皇軍を導き奉り功績を建て、
   故を以て葛野縣主に封ぜられ、
   子孫は葛野または加茂を氏とした。
   慶雲年中その奮跡に社殿を創立せられる。
   蓋し当時は葛野氏人をして祭祀を
   掌らしめられたのであらう。    
   其後も、氏人は毎年参詣する例とした。
   延喜の御小社に列し、
   新年の官幣に鍬靱・各一口を加へらる。
   例祭日、十月二十日。

 (3)八咫烏神事:ヤタガラスシンジ

 
  官幣大社熊野神社において、
   毎年一月七日に行はるる神事。
   一に寶印神事ともいふ。
   神武天皇が皇軍と師ゐ給ひ、
   熊野に至りまして
   中洲に赴かんとし給うた時、
   山中嶮岨にして路通ぜず、
   時に高皇産靈尊、
   頭八咫烏を空中より降して嚮導とし給ひ、
   遂に倭の菟田縣に達し給うたこと、
   並に當社祭神が天照大神と誓ひ給うた
   故事にとによって、八咫烏の圖を作り、
   神璽としてとして紙に押捺し、
   牛王神符としたに起因すると稱する。
   この神符は廣く天下に頒布せられ、
   眞偽・正邪を糾す霊験ありとして誓紙に
   用ひられたが、殊に中世武家の誓紙には
   殆どこの神符を必要としたのであった。
   この神事は即その神符の移靈祭と頒布式を
   兼た神事とも稱すべきであらう。
   當日、宮司以下寶印所役、氏子總代等
   神前に参進して、祭典を行ひ、
   寶印を押捺した八咫烏の圖(毎年一月六日
   松飾の松を以て、印影の寶印を彫刻し、
   八咫烏の圖を作り置く)を木串に挿みて
   神前に備へ宮司祝詞を奏して後、
   これを撤して豫め辨備せる浄水を
   湛へた桶の上に忌火を點じた
   松明をさしかけ置く)の上に差しかざして
   再び神前に供へる。
   次に寶印所役、寶印を捧げて神前に進み、
   先づ神前右側の柱に押捺し、
   ついで宮司以下氏子總代に至るまで、
   各一枚づつ寶印を捺したる料紙を拝載する。
   かくて八咫烏圖及び寶印等を徹して
   終わるのである。

 4.『山城國』風土記逸文:賀茂社
 
   山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。
   可茂と稱(い)ふは、
   日向(ひむか)の曾の峯(たけ)に
   天降(あも)りましし神、
   賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、
   神倭石余比古(かむやまといはれひこ・
   神武天皇)の御前(みさき)に立ちまして、
   大倭の葛木山(かづらきやま)の峯に
   宿りまし、
   彼より漸(やくやく)に遷りて、
   山代の國の岡田の賀茂に至りたまひ、
   山代河(木津川)の隨(まにま)に
   下りまして、
   葛野河(かどのがは・桂川)と
   賀茂河との會ふ所に至りまし、
   賀茂川を見迥(はる)かして、
   言りたまひしく、
   「狹小(さ)くあれども、
    石川の淸川(すみかは)なり」
   とのりたまひき。
   仍(よ)りて、
   名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰ふ。
   彼の川より上りまして、
   久我の國の北の山基(やまもと)に
   定(しづ)まりましき。
   爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。
   賀茂建角身命、
   丹波の國の神野の神伊可古夜日女
   (かむいかこやひめ)に
   み娶(あ)ひて生みませる子、
   名を玉依日子と曰ひ、
   次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰ふ。
   玉依日賣、石川の瀬見の小川に
   川遊びせし時、
   丹塗矢、川上より流れ下りき。
   乃(すなわ)ち取りて、
   床の邊に插し置き、
   遂に孕(はら)みて
   男子(をのこ)を生みき。
   人と成る時に至りて、
   外祖父、建角身命、八尋屋を造り、
   八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸(か)みて、
   神集(かむつど)へ集へて、
   七日七夜樂遊したまひて、
   然して子と語らひて言りたまひしく、
   「汝の父と思はむ人に
    此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、
   即(やが)て酒坏を擧(ささ)げて、
   天に向きて祭らむと為(おも)ひ、
   屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。
   乃ち、外祖父のみ名に因りて、
   可茂別雷命と號(なづ)く。
   謂はゆる丹塗矢は、
   乙訓の郡の社に坐せる
   火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。
   可茂建角身命、
   丹波の伊可古夜日賣、
   玉依日賣、三柱の神は、
   蓼倉(たでくら)の里の
   三井の社(やしろ)に坐(いま)す。
   (釋日本紀 卷九)

 ○加茂神社

 ○賀茂神社

 ○賀茂御祖神社

 ○賀茂別雷神社


M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908


漢字「八咫烏」の語義

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

 漢字「八咫烏」の語義

 『古事記』「八咫烏」
 『日本書紀』「頭八咫烏」の語義

 (1)咫(大漢和辞典)
   シ、chich³ 
      ➀尺度の名
   ②僅かの距離
   ③少ないたとへ、近いたとへ

   邦:あた、た、手の意、手いっぱいの長さ

 (2)八咫烏
   "八尺の烏(身の丈)"
   "手いっぱい八っの大きさの烏"

 (3)頭八咫烏
   "八尺の烏(頭の大きさが八尺の烏)"
   "手いっぱい八っのの大きい烏"

 (4)"大きな烏"『古事記』の序にある
   「大烏」に相当する
 神倭天皇 經歴于秋津嶋 化熊出爪 
 天釼獲於高倉 生尾遮徑 大烏導於吉野 
 列(イ+舞)攘賊 聞歌伏仇 即覺夢而敬神祇

 神倭(かむやまと)の天皇(すめらみこと)、
 秋津嶋を經歴したまいき。 
 化熊(かゆう)爪を出(いだ)して、
 天釼(てんけん)を
 高倉(たかくらじ)に獲(え)、
 生尾(しょうび)徑(みち)を遮(さえぎ)りて、 
  大烏(たいう)吉野に導きき。
 (イ+舞)(まい)を列(つら)ね
 賊(あた)を攘(はら)い、
 歌を聞き仇(あた)を伏(したが)えたまいき。  
 即ち夢に覺(さと)りて
 神祇を敬(うやま)いたまいき。

 八咫烏とは
 https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F%E3%81%A8%E3%81%AF&aq=2&oq=%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F&at=s&ai=7DfGdlnmRoeAijPZaLOacA&ts=19385&ei=UTF-8&fr=sfp_as&x=wrt

 八咫烏とは 画像
 https://search.yahoo.co.jp/image/search?aq=2&oq=%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F&at=s&ai=7DfGdlnmRoeAijPZaLOacA&ts=19385&ei=UTF-8&p=%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F%E3%81%A8%E3%81%AF+%E7%94%BB%E5%83%8F&rs=1&spro=0&fr=sfp_as



M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908

尾生る人『古事記』吉野河、『古事記』序

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

 「尾生る人『古事記』吉野河、『古事記』序

 (1)『古事記:神武天皇東征』
  即入其山之 亦遇生尾人 此人押分巖而出來 
 爾問汝者誰也 答曰僕者國神 名謂石押分之子 
 今聞天神御子幸行故 
 參向耳【此者吉野國巣之祖】 
 自其地蹈穿越幸宇陀 故曰宇陀之穿也

  即ち其の山に入りたまえへば、
 亦尾生る人に遇ひたまひき。 
 此の人、巖を押し分けて出で來たりき。 
 爾に「汝は誰ぞ」と問ひたまへば。 
 「僕は國つ神、名は石押分之子と謂ふ。
  今、天つ神の御子、幸行でましっと聞けり。
  故參向へつるにこそ。」と答へ曰しき。
  【此は吉野の國巣(くず)の祖】」。 
 其地より穿ちて越えて宇陀に幸でましき。 
 故、宇陀の穿(うがち)と曰う。
 ※この「尾生る人」は「天つ神の御子」=
  神武東征軍を歓迎した。
  そして「踏み穿ち越えて陀に幸でましき」。
  つまり
  "道なき道を開拓(穿ちて)して
   宇陀に行くことができた"

 (2)『古事記』序
  化熊出爪 天釼獲於高倉 生尾遮徑
 大烏導於吉野

  化熊川を出でて、天釼を高倉に獲、
 生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき。
 
 ※「生尾」人は「神武東征軍」を「遮った」。
  つまり、
  その徑(行先)を遮って進軍の邪魔をした。
  ここでは「生尾人」は
  「神武東征軍」に抵抗した。
 ※「大烏」はその抵抗のため「神武東征軍」を
  吉野方面へ引導した。

 (3)「神武東征軍」は吉野に入る前で進軍を
  止められ停止・滞留してしまった。

 (4)「尾生る人」の出自
  尾生「オウ〔ホ〕」
   (Sk.)aha 日、昼 ahas-kara 太陽

  ○「尾生る人」は日神〔太陽神〕崇拝の族、
   つまり「多氏」の族類

  ○多氏は田原本町の多神社を中心に
   周辺を本拠地とする。

   多氏の本貫地は九州筑後国三家郡で
   邪馬台国所在地であった
   太陽信仰〔日奉・日置〕の人々
   多氏族の九州から「大倭」への移動に
   ついては拙著「日本創世記」に詳しい。

 
  ○多氏の出自はインドアジア大陸の
   アーリア人である。

   インドの神話の開闢の祖神の伝承に
   nāga-randra-kara
   〔岩を切り裂いて貫通させる神話〕があり、
   その神名を kumāra という。

      田原本町の多神社の正門の向いに鎮座する
   神社「小社神社」の「コモリ」は
   その kumāra の音写に依る。

   『古事記』のいう
   「石推分」とか、「穿ち越え」は
   その伝承を記録したものである。

   「尾生る人」との表記は
   上記 nāga は本来「山」であるが、
   同音の別語「竜(大きな蛇)」を表す。

   多氏の勢力圏でであった信州〔長野県〕には
   「泉小太郎」〔別称"竜の子"〕なる伝承がある。
   母竜を「犀竜」という。
   いかにもアーリア人の神話を継承した表記である。

 (5)「生尾」『古事記』序
   生尾「セイビ」あるいは「セーピ」
    (Sk.)sarpa 蛇、爬行する、這う
   "尾生る人"にして nāga〔竜〕に対応した呼称で
   漢字転記が容易だったはず。

 (6)「尾生る人」「生尾」は
   どこで「神武東征軍」の進攻を遮ったのか。

   佐味(東西)〔御所市の南端、五条市との境界〕
   この呼称は「さび」である。
   「サビ」は(Sk.)sarpaの音写。
   彼の勢力はここにあった。
   ➀吉野近く
   ②他氏勢力圏のうち

  ※「神武東征軍」と彼らの居留地を
    攻略されるのを嫌って抵抗したのである。

 (7)『古事記』
   尾生る人、井より出で来しき~
   「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ」
   烏井戸・井戸
    〔御所市、高鴨神社(鴨神)の北方近く〕
   五百家:井氷鹿/イピカ
    〔御所市、高鴨神社と烏井戸の間の地名〕

M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908


『記・紀』及び『風土記』が述べる「神武東征軍の」停留地

⚽☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪⚽

東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

 「『記・紀』及び『風土記』が述べる「神武東征軍の」停留地


 (1)『古事記』
  ○尾生る人に会いし所:吉野河の河尻

 (2)『日本書紀』
  ○熊野の荒坂津(から)山の中嶮絶して、
   復行くべき路無し、乃ち棲遑ひて、
   其の跋み渉かむ所を知らず。

 (3)~山路嶮絶、越え行く方角が分からないので
   躊躇していると~

 ※具体的な地名は「吉野河の河尻」と
  吉野川沿いにあるいは
  水源と推測される阿知賀〔吉野郡下市町〕: 
  吉野川左岸の地区名

  アチカ(Grk.)Attikh
     アテナイを中心とする地域(イオニア人の土地)

  下市の「市:イチ」
   (Grk.)āütŋ戦闘、威声、音響

  〇ここが「尾生る人」との戦闘が行われた「戦場」

 (4)「神武東征」は本来「崇神東征」との解釈は
   「日本創世記」などに詳しく紹介した
   崇神天皇の勢力〔大伴氏〕は
      ギリシャ系人々の末裔

  〇『日本書紀』(神武即位前期)
   是の時、大伴氏の遠祖、
   日臣命(ひのおみのみこと)、
   大来目(おおくめ)を帥ひて、
   元戎(おおつわもの)に
   督将(いくさのきみ)として、
   山を蹈み行を啓き、
   乃ち烏の向かへるを尋(と)め、
   仰ぎ視て追ふ。
   遂に菟田の下県に達(いた)る。
   因りてその至れる処を号けて
   菟田の穿邑(うかちのむら)と曰ふ。

   「大伴:オホトモ」
    Ευθυδεμος
    Ευ-θεo-θαυμαξω
           

      〔繁んに神を崇拝する〕=
    崇神(第10代天皇:崇神天皇名)
 
   日臣命「日=ヒ」
    (Grk.)βια権力、兵力

   道臣「道=ミチ」
    (Grk.)μιτις智恵・智謀:「参謀」

   天忍日命「忍日=オシヒ」
    (Grk.)οσια神の掟:祭儀・神を祀る事>
               敬神・崇神

    οσιηοσιαに同じ

M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908