2019年5月14日火曜日

神道大辞典&山城国風土記

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東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 

 「神道大辞典&山城国風土記

 3.「神道大辞典」ヤタガラス・八咫烏

 (1)神武天皇の中洲御平定に當たり、
   皇軍が山中の險路に迷うた時、
   天照大神の勅命を以て嚮導のために
   遣わされた神。
   ~山路嶮絶、
   越え行く方角が分からないので
   躊躇していると、其の夜、
   天照大神の御夢告に、
   いま八咫烏を遣すから、
   それを道しるべとせよ、と仰せられた。
   翌日になると果たして八咫烏が空から
   飛び降ったので、
   天皇は
   「此烏之來、自叶祥夢、大哉赫矣、
    我皇祖天照大神、欲助成基業乎」と
   仰せられた。
   是の時、大友氏の遠祖日臣命が、
   大來目隊の統率者であったが、
   烏の向ふままに導かれて
   山を踏んで啓行し、遂に兎田の下縣に
   達することを得たと記している。
   ~
   『山城風土記』は
   八咫烏とは賀茂別雷神命の母なる
   玉依姫の父賀茂建角身命の事で、
   初め日向の曾の峯に天降り、
   神武天皇の東征に及んで先駆し、
   大倭の葛木山の峯に宿り、
   のち漸次に移って
   山代国岡田の賀茂に至り、
   山代川に随って葛野河と賀茂河との
   合流点から賀茂川を遡江し、
   久我國の北山の基に鎮り坐したと記し、
   『姓氏録』には之を神魂命の孫で、
   化して大烏の如く、
   朔り飛んで皇軍を導き奉ったので、
   天皇その有功を嘉し、
   特に厚く褒賞し給うたと記している。
   (略)

 (2)八咫烏神社:ヤタガラスジンジャ
   http://www.yatagarasujinja.net/
   奈良懸宇陀郡伊那佐村大字高塚に鎮座。
   懸社。鴨建角身命を祀る。
   神武天皇中洲征平の時、この神、
   八咫烏となって虚空より翔飛し
   皇軍を導き奉り功績を建て、
   故を以て葛野縣主に封ぜられ、
   子孫は葛野または加茂を氏とした。
   慶雲年中その奮跡に社殿を創立せられる。
   蓋し当時は葛野氏人をして祭祀を
   掌らしめられたのであらう。    
   其後も、氏人は毎年参詣する例とした。
   延喜の御小社に列し、
   新年の官幣に鍬靱・各一口を加へらる。
   例祭日、十月二十日。

 (3)八咫烏神事:ヤタガラスシンジ

 
  官幣大社熊野神社において、
   毎年一月七日に行はるる神事。
   一に寶印神事ともいふ。
   神武天皇が皇軍と師ゐ給ひ、
   熊野に至りまして
   中洲に赴かんとし給うた時、
   山中嶮岨にして路通ぜず、
   時に高皇産靈尊、
   頭八咫烏を空中より降して嚮導とし給ひ、
   遂に倭の菟田縣に達し給うたこと、
   並に當社祭神が天照大神と誓ひ給うた
   故事にとによって、八咫烏の圖を作り、
   神璽としてとして紙に押捺し、
   牛王神符としたに起因すると稱する。
   この神符は廣く天下に頒布せられ、
   眞偽・正邪を糾す霊験ありとして誓紙に
   用ひられたが、殊に中世武家の誓紙には
   殆どこの神符を必要としたのであった。
   この神事は即その神符の移靈祭と頒布式を
   兼た神事とも稱すべきであらう。
   當日、宮司以下寶印所役、氏子總代等
   神前に参進して、祭典を行ひ、
   寶印を押捺した八咫烏の圖(毎年一月六日
   松飾の松を以て、印影の寶印を彫刻し、
   八咫烏の圖を作り置く)を木串に挿みて
   神前に備へ宮司祝詞を奏して後、
   これを撤して豫め辨備せる浄水を
   湛へた桶の上に忌火を點じた
   松明をさしかけ置く)の上に差しかざして
   再び神前に供へる。
   次に寶印所役、寶印を捧げて神前に進み、
   先づ神前右側の柱に押捺し、
   ついで宮司以下氏子總代に至るまで、
   各一枚づつ寶印を捺したる料紙を拝載する。
   かくて八咫烏圖及び寶印等を徹して
   終わるのである。

 4.『山城國』風土記逸文:賀茂社
 
   山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。
   可茂と稱(い)ふは、
   日向(ひむか)の曾の峯(たけ)に
   天降(あも)りましし神、
   賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、
   神倭石余比古(かむやまといはれひこ・
   神武天皇)の御前(みさき)に立ちまして、
   大倭の葛木山(かづらきやま)の峯に
   宿りまし、
   彼より漸(やくやく)に遷りて、
   山代の國の岡田の賀茂に至りたまひ、
   山代河(木津川)の隨(まにま)に
   下りまして、
   葛野河(かどのがは・桂川)と
   賀茂河との會ふ所に至りまし、
   賀茂川を見迥(はる)かして、
   言りたまひしく、
   「狹小(さ)くあれども、
    石川の淸川(すみかは)なり」
   とのりたまひき。
   仍(よ)りて、
   名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰ふ。
   彼の川より上りまして、
   久我の國の北の山基(やまもと)に
   定(しづ)まりましき。
   爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。
   賀茂建角身命、
   丹波の國の神野の神伊可古夜日女
   (かむいかこやひめ)に
   み娶(あ)ひて生みませる子、
   名を玉依日子と曰ひ、
   次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰ふ。
   玉依日賣、石川の瀬見の小川に
   川遊びせし時、
   丹塗矢、川上より流れ下りき。
   乃(すなわ)ち取りて、
   床の邊に插し置き、
   遂に孕(はら)みて
   男子(をのこ)を生みき。
   人と成る時に至りて、
   外祖父、建角身命、八尋屋を造り、
   八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸(か)みて、
   神集(かむつど)へ集へて、
   七日七夜樂遊したまひて、
   然して子と語らひて言りたまひしく、
   「汝の父と思はむ人に
    此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、
   即(やが)て酒坏を擧(ささ)げて、
   天に向きて祭らむと為(おも)ひ、
   屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。
   乃ち、外祖父のみ名に因りて、
   可茂別雷命と號(なづ)く。
   謂はゆる丹塗矢は、
   乙訓の郡の社に坐せる
   火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。
   可茂建角身命、
   丹波の伊可古夜日賣、
   玉依日賣、三柱の神は、
   蓼倉(たでくら)の里の
   三井の社(やしろ)に坐(いま)す。
   (釋日本紀 卷九)

 ○加茂神社

 ○賀茂神社

 ○賀茂御祖神社

 ○賀茂別雷神社


M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908


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