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《東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路》
歴史学講座「創世」
歴史研究家
小嶋秋彦
「尾生る人『古事記』吉野河、『古事記』序」
(1)『古事記:神武天皇東征』
即入其山之 亦遇生尾人 此人押分巖而出來
爾問汝者誰也 答曰僕者國神 名謂石押分之子
今聞天神御子幸行故
參向耳【此者吉野國巣之祖】
自其地蹈穿越幸宇陀 故曰宇陀之穿也
即ち其の山に入りたまえへば、
亦尾生る人に遇ひたまひき。
此の人、巖を押し分けて出で來たりき。
爾に「汝は誰ぞ」と問ひたまへば。
「僕は國つ神、名は石押分之子と謂ふ。
今、天つ神の御子、幸行でましっと聞けり。
故參向へつるにこそ。」と答へ曰しき。
【此は吉野の國巣(くず)の祖】」。
其地より穿ちて越えて宇陀に幸でましき。
故、宇陀の穿(うがち)と曰う。
※この「尾生る人」は「天つ神の御子」=
神武東征軍を歓迎した。
そして「踏み穿ち越えて陀に幸でましき」。
つまり
"道なき道を開拓(穿ちて)して
宇陀に行くことができた"
(2)『古事記』序
化熊出爪 天釼獲於高倉 生尾遮徑
大烏導於吉野
化熊川を出でて、天釼を高倉に獲、
生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき。
※「生尾」人は「神武東征軍」を「遮った」。
つまり、
その徑(行先)を遮って進軍の邪魔をした。
ここでは「生尾人」は
「神武東征軍」に抵抗した。
※「大烏」はその抵抗のため「神武東征軍」を
吉野方面へ引導した。
(3)「神武東征軍」は吉野に入る前で進軍を
止められ停止・滞留してしまった。
(4)「尾生る人」の出自
尾生「オウ〔ホ〕」
(Sk.)aha 日、昼 ahas-kara 太陽
○「尾生る人」は日神〔太陽神〕崇拝の族、
つまり「多氏」の族類
○多氏は田原本町の多神社を中心に
周辺を本拠地とする。
多氏の本貫地は九州筑後国三家郡で
邪馬台国所在地であった
太陽信仰〔日奉・日置〕の人々
多氏族の九州から「大倭」への移動に
ついては拙著「日本創世記」に詳しい。
○多氏の出自はインドアジア大陸の
アーリア人である。
インドの神話の開闢の祖神の伝承に
nāga-randra-kara
〔岩を切り裂いて貫通させる神話〕があり、
その神名を kumāra という。
田原本町の多神社の正門の向いに鎮座する
神社「小社神社」の「コモリ」は
その kumāra の音写に依る。
『古事記』のいう
「石推分」とか、「穿ち越え」は
その伝承を記録したものである。
「尾生る人」との表記は
上記 nāga は本来「山」であるが、
同音の別語「竜(大きな蛇)」を表す。
多氏の勢力圏でであった信州〔長野県〕には
「泉小太郎」〔別称"竜の子"〕なる伝承がある。
母竜を「犀竜」という。
いかにもアーリア人の神話を継承した表記である。
(5)「生尾」『古事記』序
生尾「セイビ」あるいは「セーピ」
(Sk.)sarpa 蛇、爬行する、這う
"尾生る人"にして nāga〔竜〕に対応した呼称で
漢字転記が容易だったはず。
(6)「尾生る人」「生尾」は
どこで「神武東征軍」の進攻を遮ったのか。
佐味(東西)〔御所市の南端、五条市との境界〕
この呼称は「さび」である。
「サビ」は(Sk.)sarpaの音写。
彼の勢力はここにあった。
➀吉野近く
②他氏勢力圏のうち
※「神武東征軍」と彼らの居留地を
攻略されるのを嫌って抵抗したのである。
(7)『古事記』
尾生る人、井より出で来しき~
「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ」
烏井戸・井戸
〔御所市、高鴨神社(鴨神)の北方近く〕
五百家:井氷鹿/イピカ
〔御所市、高鴨神社と烏井戸の間の地名〕
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