2019年3月17日日曜日

アベについて(4)

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アベについて

※出典:著者・加治木義博

 ◎大学講義録09

 <こんなにある「魚と同じ名の姓」>抜粋

 アサリ=浅利・麻里・浅井。
 アジ=庵治・安司・阿遅。味~。
 アメノウオ=天の魚(琵琶湖だけにいる)
 アラ=荒。
 アンコウ=安康天皇 
 イカ=伊賀・伊香。
 イサザ=五十狭   
 イシモチ=石持・石毛智。          
 イナダ=稲田。 
 イルカ=入川・入鹿。         
 イワシ=岩下・鰯田・岩師・井橋。
 イワナ=岩名・岩国。
 ウナギ=海の貴・棟木・大凧
 オオバ(イワシ)=大場・大庭。
 チュウパ(イワシ)=中馬。
 コパ(イワシ)=木場・木庭・木葉。
 ウグイ=大食→タジー→田尻。
 ウニ=宇根(沖縄発音ウニ)。
 エイ=頴娃・永。
 エソ=蝦夷。
 エビ=恵美・蝦夷。
 オイカワ=及川・老川。
 オコゼ=大小瀬。
 カイ=甲斐。
 カジキ=梶木・加治木。
 カツオ=加治木の魚→カチッオ→勝魚
 カニ=可児。
 カレイ=嘉例川。
 ギギ=魏・ゲギュウ(外宮) 
 キス=岐須・仇首・木津
 キハダ=木皮。 
 クジラ=百済。
 クラゲ=倉下。
 コイ=許斐・己斐・古井。
 コノシロ=古野・河野 
 コチ=高知・徴叱許智。
 ゴマメ=高麗女。
 サバ=佐波・早波。
 サメ=蚊島・醒井・鮫間。 
 サヨリ=佐用理=佐依=小夜=玉依姫
              に対するサヨ
 サワラ=砂原・佐原・早良・草羅。
 サンゴ=三吾・珊瑚。
 シーラ=椎良・白・斯羅・新羅・志毘羅。
 シジミ=志治味・洒水。
 シビ=志斐連・阿部と中臣にある 
 シャチ=幸
 スガイ=菅井・須貝。
 スズキ=鈴木・寿松木。
 スバシリ=砂走 
 スルメ=水流女
 タイ=田井。
 タコ=田子・多胡。             
 タナゴ=棚川・多奈川 
 タニシ=谷下・谷重
 タラ=太良・太良・田羅・多羅。
 トビウオ=鳥見・富尾。
 ドジョウ=土酋  
 トミヨ=富尾・富代・十三代。
 ナマズ=生津・鯰田  
 ニシン=西野
 ニナ=蜷川。  
 ニベ=仁部
 ハエ(ハヤ)=芳養・速・隼 
 ハゼ=枦・羽瀬・土師・長谷・泊瀬。
 ハタ=波田・波多・羽田・秦・畑。
 ハタハタ=秦
 ハマチ=濱地、羽町。
 ハモ=韓(ハン)
 ヒガイ=比嘉  
 ヒラメ=比良女・新羅女
 フカ=深尾・深田・深日。
 フク=福
 フナ=二名・鮒・船井・舟木・船田・船の史。
 ブリ=武利・武衛・風流・佐分利。
 ボラ=坊・洞 
 マス=増田・升・桝川・舛添・益城。     
 マベ=間部 
 マルタ=丸田・円田。
 ムツ=陸奥・武津。  
 ヤマベ=山辺・山戸・屋麻戸。
 ワカマツ=若松・新松。 
 ワニ(鮫)=和邇・王仁・和二・羽仁。

 ◎大学講義録17

 <戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利>抜粋

 白村江を韓国の地名と信じている人があるが。

 戦勝国新羅の正史
 『三国史記新羅本紀』は
 百済戦を詳細に記録しているのに、
 白村江に似た地名も海戦も倭軍と戦った
 記録さえもない。

 『日本書紀』だけが
 「大唐 軍将 率 戦船一百七十艘 陣烈 於 
  白村江」と、
 たった一度書いているだけなのだ。

 しかもその前には
 この戦船一百七十艘は
 安曇比邏(アヅミヒラ)夫が
 扶余国太子豊璋を百済に送った船団だと書き、
 同年、阿部比羅夫が船師
 一百八十艘で蝦夷国を攻めたと、
 斉明天皇紀の最後の部分に
 わざと話して書いてある。

 ア津ミ・アベはアメ、
 ヒラ夫(オ)はシラ王(オ)で新
 羅王=天(アメ)命開(ヒラキ)別=天智天皇の名。

 蝦夷は蘇我蝦夷=百済倭国王で、
 白村江・百済・蝦夷の国は
 皆同じ大阪なのだから、

 この3船団は
 本当は敵の日本軍の1船団だけなのである。

 そんな事実はこの大戦直後には、
 『日本書紀』編集者も天武天皇も国民も、
 知り尽くしている。

 それをわざわざ
 3船団のように見せ掛ける努力を重ねた目的は、
 簡単に割り出せる。

 天武天皇の当時最大の敵は、
 彼が倒した天智天皇一族よりも、
 巨大な兵力をもつ唐だった。

 『日本書紀』は
 その唐に読ませるのが目的だったから、
 本当は敵の新羅=日本軍の船団なのに、
 それを自国の船団に見せる記事に仕立て、
 百済倭国の首都・大阪の大敗戦も、
 朝鮮半島の植民地・扶余国の敗戦にすり替え、
 自国の名も
 わざと日本のまま押し通したのである。

 ◎大学講義録28

 <『十八氏纂記』を提出した人々
       (倭国出身)の歴史>抜粋

 『日本書紀』が
 欽明天皇紀から
 書き始められたという証拠としては、
 注だけでは弱いとお思いの方に、
 もう一つの証拠を御覧に入れよう。

 『日本書紀』第23舒明天皇紀は、
 推古天皇の死後、
 だれが皇位を継ぐかで動揺する関係者たちを、
 詳細に描写した部分に始まるが、
 その中心人物で、
 決定権を握る蘇我蝦夷が病気になり、
 代行者、阿倍臣、中臣連、河辺臣、
 小墾田(オハリタ)臣、大伴連ら重臣を通じて
 山背大兄王子に伝えた言葉がある。

 「磯城(シキ)島の宮に
  御宇(あめの下治(し)らしめしし)
  天皇の世から近世に及ぶまで」

 という語り出しである。

 これは、うっかりしていると、
 神武天皇の世から、
 という風に思えるかも知れないが、
 磯城島宮御宇天皇というのは
 欽明天皇のほかにはない。

 蘇我蝦夷といえば、
 その後
 「天皇記」、「国記」などを焼いて自殺した、
 あの人物である。

 その蝦夷がわざわざ初代天皇を
 欽明天皇だと指摘しているのである。

 それも、
 天皇を指名するという国家の最前の大事を
 決定するための、
 荘重かつ厳粛な宣言の冒頭を、
 権威あらしめるための、第一声である。

 それがとんでもない間違いであったとしたら、
 喜劇にしかならない。

 ◎大学講義録31

 <鎌足の阿武(アム)山と
      大織冠(オオしょくかん)の真相>抜粋

 これで倭国東遷の証拠がさらに充実したが、
 それより私たちの本来の主題である

 建国史のヒロイン・卑弥呼の名の語源が、
 決定的にわかることのほうが重要である。

 それを整理してみよう。

 茨木市に残る安威・藍野・鮎川が
 いずれも「アイ」の発音をもち、
 卑弥呼の本来の発音
 「ぺマカ(パーリ語)」の意味である

 「愛」の中国語発音
 「アイ」に一致することで、
 彼女の伝統を継ぐ政権が
 そこにあったことが証明されているが、
 これにはさらに強力な証言が加わってくる。

 この茨木市には、
 藤原鎌足の
 冠位「大織冠(しょくかん)」に
 相当する装束の遺品とされる玉製品が
 出土した彼の墓があることで
 有名な阿武(あぶ)山がある。

 この本来の発音は「アム」で、
 安威以上にアムピトリテの略名に一致していた。

 この「阿武」は、
 また萩市(山口県)を流れる阿武(あぶ)川と、
 その北東にある
 阿武町に代表される阿武郡が知られているが、
 それは名力士「阿武の松」を出したからである。

 この力士の醜名(しこな)は
 アブノマツではなく
 「オオノマツ」と発音するから
 阿武の古音が「オオ」だったことがわかる。

 すると
 百済倭国(フジワラ)(藤原)鎌足の墓が
 造られたから
 その山が「オオ=倭」山と呼ばれ
 阿武山と当て字されたのだとわかるし、
 さらに彼の冠位「大織冠」の大は
 「倭人(オオ)」で、
 織は「職=役職」、
 冠は「上(かみ)・守(かみ)」、
 倭人を管理する長官といった国名だったとわかる。

 <馬国城(ウマラギ)の歴史と
      害虫名アブ・シラミの皮肉>抜粋

 こうわかると、
 鎌足の墓が山上にある茨木は
  大化改新(乙巳の変)後の旧百済倭国人の
 本拠地だったことがわかるから、
 茨木という地名もその歴史が読み取れる。

 茨木は古音「ウマラキ」だから
 「馬国(ラ)王(キ)・馬国(ラ)城(ギ)」
 すなわち
 百済倭国王の城=都城(とじょう)=首都
 という意味への、後世の当て字で、
 茨城という当て字は、
 むしろ茨木より
 本来の都城の意味を残していて、
 平将門式の中央政権への抵抗の跡が
 感じられる地名であり、
 倭国東遷が一層鮮明に立証されてくる。

 ここまでわかると取手市の西南隣りにある
 我孫子(アビコ)も、
 アブよりさらにアムビに近いから、
 本来は取手と一体になっていた
 遺跡だとみるべきだし、
 茨城県から北上する
 阿武隈(アブクマ)山地の名も
 阿武隈川の名も共に、
 また当然、
 このアムピトリテの子孫でなければならない。

 この「アブ」の名は、
 百済倭国が、
 国民にどう思われていたかまで記録している。

 アブは「虻(アブ)(古音アム)」で、
 戦前までは大量に発生して、
 うるさく人畜にたかって
 生き血を吸う嫌われ者だったし、
 新羅も蛭子も同じ生き血を吸う
 嫌れ者の名に使われている。

 「シラミ」は南九州語で
 「シラメ・シタメ=新羅女・下女」という。

 蛭は池や川にいる害虫である。
 「厄介者には手出しをするな」
 という意味のことわざ

 「虻・蜂とらず」は、
 抵抗は無駄だという諦めの譬(たと)えだが、
 蜂は八幡で、
 応神・仁徳系も
 決して好かれてはいなかったのだ。

 ◎大学講義録32

 <5世紀の欧州に
      『出雲神話』を広めた人々>抜粋

 ついでにいえば邪馬国はジャマ国で、
 むしろドイツを指す英語のジャーマンに近い。

 このほうは単なる
  「他人のソラ似」などではなく、
   5世紀にアッチラ大王
 (阿修羅王=ウッタラ= 
  大多羅坊主(ウッタラボッチ))を
 戴いて欧州に進入し、
 ハンガリーやハンブルグをつくり、
 フィンランドをつくった
 アジアからの遠征者・
 フン族とか匈奴(キョウド)とか
 呼ばれた人たちが、
 いま日本とドイツに現存する

 財津(ザイツ)(Seit)さん、
 久野(Kuno)さん、
 阿部(Ave)さん、
 岡・大川(Oka)さん、
 三浦(Muller)さん、
 人等(ヒトラ)・日虎(ヒトラ)(Hittler)さん
 等という
 多くの姓を双方に残したものと見るほかなく、
 そこでもまた
 『出雲神話』そっくりの
 ジークフートの大蛇退治伝説などを、
 広く北欧に拡めているが、

 ジーク(邪久(ジャク))
 フリート(布留人(フルヒト)=夫余人)と

 読めば、
 屋久島王=厄神であるスサノオの尊こと
 高句麗山上王・位宮にヒッタリの名乗りになる。

 するとジークフリートが暗殺されたあと、

 か弱い、女性の身で
 復讐を成し遂げた彼の妻クリームヒルトも、
 クリーム(高麗国(クリーム)=大隈発音)
 ヒルト(日霎徒(ひると)で、
 ソナカ死後に倭国大乱を勝ち抜いて、
 女王に即位した卑弥呼=神功皇后にも、
 また位宮が暗殺された後の
 壹與=神功皇后にも共にピッタリ合う。

 これも笑って済ませられる問題ではない。

 『出雲神話』とは、
 簡単に結論の出る「日本製神話」でも、
 「輸入品だ」で済む相手でもないのである。

 ◎大学院講義録09

 <応神天皇の后妃皇子女>抜粋

 后妃の父     后妃      皇子女     皇孫

               ┌額田大中日子命
               ├大山守命
       ┌高木入日売命─┼伊奢真若命
       │              ├大原郎女
       │              └高目郎女
                    │
       │               ┌木荒田郎女  ┌大江伊耶木別命
 品陀真若命─┼中日売命─┼大雀命     ─┼墨江中王
       │     └根鳥命        ├蝮水歯別命
       │             └男浅津間若子宿祢
       │         ┌阿部郎女
       └弟日売命    ─┼阿貝知三原郎女
               ├木莵野命
               └三野郎女

 <九州から近畿へ飛ぶ皇子女名>抜粋

 次は皇子女の名乗りを簡単に見てみよう。

 額田は『魏書倭人章』の官名・奴佳鞮。

 高目は<タカマ>で高天と同じもの、
   宮廷を意味する。

 木荒田はキイ=霧=霧島と
 安楽(大隅)国(ダ)、荒田(鹿児島市)で
 安羅国。

 根鳥はネチョウで根占。

 阿部はアメで阿波・淡、
 『隋書』の阿輩=阿波王(アハイ)。
 阿貝知三原は淡路島三原郡。

 木菟野は
 キノ=紀伊・チヌ=姐奴国⇒茅沼・ツナ=津名。

 三野は弥奴淘から三瀦。

 宇遅和紀と宇遅若は
 倭とチヌ=茅沼・ツナ=津名で津名王と王妃。

 八田は波多で
 「孝元天皇記」の波多八代宿祢の
 2重名乗りが示すように八代(肥後)。

 女鳥の女は沖縄~大隅発音で
 はミ、ミトリは緑だが
 当時はこれに合う地名はない。

 「応神天皇記」の「蟹の歌」に
 「伊知遅島、美島」があり、
 伊地知姓は鹿児島独特の姓だから、
 これは同県の三島とみると、
 この女王と速總別の悲恋が具体化する。

 若沼毛二俣は
 和歌山と沼島と紀州にまたがった王。

 速總別はハヤ・ソオで隼=巴利国と曽於。

 大羽江と小羽江は
 ウハイとヲハイで倭⇒
 上井(大隅と備後)と尾張。

 檣日はハタヒ、八代と火の国。

 川原田はコウハルダで今の高原(日向)国。

 玉はツマ・タイマで
 投馬国・妻・当摩(日向)・
 但馬・当麻(大和)。

 忍坂はニンバン=
 ニルバナ(臨終)への当て字で、
 大中日女は額田大中日子と
 同じく管掌する仕事の官名。
 
 登富志はトフシで答志(志摩)。

 迦多遅は加太(和歌山)道(ジ)。


 ◎大学院講義録12

 <大国主と応神天皇の系譜比較>抜粋

       大国主の系譜             応神天皇の系譜

       妻        子             妻       子

 1 多紀理毘売   阿遅鉏高日子根   高木入日売命    額田大中日子命
            (迦毛大御神)            大山守命
              高比売                  伊奢真若命
            (下光比売)               大原郎女
                               高目郎女
                                 木荒田郎女

 2 神屋楯比売    事代主       中日売命      大雀命

 3 鳥耳       鳥鳴海            弟日売命  阿部郎女
                             阿貝知三原郎女

 4 日名照額田毘道                      木菟野命
   男伊許知邇    国忍富                 三野郎女


 5  葦那陀迦    速甕之多気佐  宮主矢河枝比売命 宇遅和紀郎子
   (八河江比売)  波夜遅奴美                   八田若郎女
                                  女鳥王
       
 6  前玉比売    甕主日子      袁那辨郎女       宇遅若郎女

 
 ゴシックは相互に対応している部分

 <大国主と
      応神両系譜の后妃皇子女はどう合うか?>抜粋

 しかし、
 この絵は沖縄に土着した人々の、
 ささやかな漁猟生活を写したもので、
 列島本土に移住した人々の子孫には、
 奇異に映った風俗だったのである。

 千年の年月は、
 それだけの風俗差を作りだしていた。

 では本土に移住したギリシャ系海人族は
 どうなったか?。

 雄略天皇が金波鎮漢紀武と名乗って、
 81艘の海軍を率いて
 允恭天皇を倒したことは先にお話しした。

 それ以後に確実な記事があるのは
 大化改新前後である。

 『日本書紀』をみると、
 天智天皇元年5月、
 大将軍・大錦中の阿曇の比羅夫が、
 船師170艘を率いて、
 百済の豊璋を百済国まで
 護送したという記事がある。

 この阿曇は従来、アズミと読んで来たが、
 阿はオ、オーでもあるから、
 「オーズミ=大隅」であり、
 百済をホズミと読んだものの大隅発音でも、
 やはりオースミになる。

 結局彼は百済人そのものだから、
 ポセイドン人=海軍の総指揮官だったのである。
 
 この海軍の総指揮官がもう一人いる。
 阿部の比羅夫である。

 同じ名乗りをもったこの人物は
 斉明天皇4年4月に、
 船師170艘を率いて蝦夷を討ち、
 続いて粛慎(シン)を討つ。

 同6年3月には船師200艘を率いて、
 また粛慎を討つ。

 その船がどれ位の大きさだったかは別として、
 渡海して兵員を運んで戦えるだけの海軍が、
 7世紀まで実在したことは確かだ。

 ◎大学院講義録15

 <台湾から青森まで、
  倭国の足跡を記録している陸奥>抜粋

 この「日本語読み」の問題に視点を絞ると、
 さらに大きな証言が出現する。

 それは
 台湾の古名が「小琉球」で、
 沖縄が「大琉球」と呼ばれていた事実である。

 これは誰がみても現実とは逆になっている。

 沖縄は小さく、台湾が大きい。

 しかし、この大小を日本語読みすると、
 コ琉球とオオ琉球である。

 これは
 古(こ)琉球と倭(おお)琉球だったとわかるから
 何の不合理もない。

 この琉球の名はリクウという
 大隅語のまま「陸奥(リクアウ)・リクウ」という
 当て字になって現在も残っている。

 もう1つの琉球への当て字・
 六合(りくあう)も、
 六をムツという日本語で読んだ
 「陸奥(ムツ)」という読み方として残っていて、
 東北地方の北端まで
 琉球人が移住した事実を立証している。

 だからこれで私たちには、
 琉球は単に沖縄県だけでなく、
 台湾からスタートして青森県まで
 到達したことが読みとれる。

 それは今の主題
 「ギリシャ系倭国天皇家が台湾で生まれた」、
 そして5世紀に大和朝廷を造り、
 7世紀に大化改新で近畿の倭国政権が負けて、
 日本政権に変わったあとも
 東国では勢力をもち続けており、
 最後に東北に移動して、
 この陸奥の地名を現在まで止どめているのだ、
 と明確に理解できる。

 するとその追撃戦の記録もよくわかる。

 先ず天智天皇の阿部の比良夫、
 次が坂上田村麻呂、
 そして八幡太郎義家で、
 八幡平(たい)などの地名も
 その遺物だと非常によくわかる。

 ◎大学院講義録16

 <なぜ?
     3人のヒラッ(比羅夫・開く)は
     同一人か?>抜粋

 この2人に見える比羅夫は
   実は同一人なのである。

 なぜなら
 阿曇=アヅミはア津ミに対する当て字であり、
 阿部は
 沖縄語ではアビでビは美を当て字するとミ。

 ア津ミから助詞の津をとった
 アミと同じになるからである。

 これは多くの記録を素材にした
 『記・紀』編集者が、文字が違うから
 別人だと錯覚して、
 2重に記載したための事故だとすぐわかる。

 しかしそれが同一人だという
   理由はまだ他にある。

 これだけで断定するのは間違いなのである。

 もう1つの理由は、
 沖縄語では「天」もまた
   アミと発音することである。

 この2人の比羅夫と同時存在である天智天皇は、
 「天命開別」という名乗りをもっている。

 これは大隅語では
 「アミの命、開(ヒラ)ッビチ(日木(ビチ)=
  ヒコ=日子)」と読む。

 このうちの敬称の「命と日子」を除くと、
 後に正味の名が残るが、
 それは大隅語では「アミ・ヒラッ」になる。

 2人に見える比羅夫もまた
 大隅語で「アミ・ヒラッ」である。
 3つとも全く同じ名なのだ。

 しかしこれでも同一人だというのは、
 まだ早い。

 それは3人の別人が、
 順番に一つの名乗りを継承した
 可能性があるからである。

 しかしこの3人は
 単に同時存在だというだけでなく、
 同時に同じことをしている。

 この3人のヒラッは
 白村江戦争で共に
 百済を助けて戦っているのである。

 同じ名乗りをもつ他人が同時に3人もいて、
 同じことをすることは絶対にない。

 <比羅夫が打った蝦夷は
      天智天皇が討った蘇我蝦夷>抜粋

 しかし、
 同一人だとすると新たな疑問が沸(わ)いてくる

 先に阿部の比羅夫が蝦夷を討伐し、
 粛慎を討ったとあるとお話しした。

 だとすれば天智天皇の大変な業績なのに、
 なぜ?
 それが一言も記録されていないのか?。

 いくら記録が混乱したといっても、
 それは記録の持ち主が、
 それぞれ使った当て字が違うだけで、
 その事跡は同じように書かれていたはずだから、
 それまで変わってしまうことはない。

 変わるのは当て字のちがう
 名前くらいのものである。

 そして実際に検討してみると、
 事実、全てその通りなのだ。

 いやその名の1つである蝦夷に至っては、
 その文字さえも同じなのである。

 天智天皇は中ノ大兄ノ皇子時代に、
 彼の最も有名な行為、
 クーデターを敢行して
 蘇我を倒したと記録されている。

 もうおわかりのように、
 その相手は蘇我「蝦夷」なのである。

 すると阿部比羅夫が討った蝦夷討伐の、
 顎田(アグタ=原文には歯偏に咢の文字と田)や
 淳代(ヌシロ)はどうみても、
 東北地方の秋田や能代ではありえなくなる。

 ところが同じ年に粛慎も討つ。

 粛慎といえば
 私たちの常識ではシベリアの住民である。

 その一部が、
 そのときの阿部比羅夫の名乗りである
 「越国守」の名から北陸あたりが、
 その粛慎国だったのだとされてきた。

 だがこれも怪しくなる。

 ではそれらの記事はすべて、
 『日本書紀』がデツチ上げた
 大ウソだったのであろうか?。

 ◎大学院講義録18

 <日本語で容易に読める
      シベリヤ南部の地名群>抜粋

 もちろんシベリヤ南部も見なければならないが、
 その地名をえんえんと並べていては
 多分うんざりなさると思うので、
 南部は簡単に済ませるが、
 それでも充分、
   日本語だということが確認できる。

 バイカル湖にそそぐのはオカ川で、
 岡川や遠賀川と同じ。

 そこから北上してチクシまで行くのが
 先にお話ししたレナ川だが、
 この川沿いにも

 ジガンスク        地神宿。
 サンガル         下がる。
 バタマイ         畑舞、畑米。
 ハンシガ Khansiga     坂滋賀・神志賀。
 アムガ        天家などが並んでいる。

 このアムガは
 阿武家と書くとオオガとも読まれて、
 大神・相賀・大川などにも
 変化している地名や姓に一致する。

 このほか
 カリムスコエ    狩息子江・雁産越。
 トンモト      宮本。
 アルダン      有田の。有段。
 ナゴルヌイ     名残縫・名残無。
 ツルン       鶴野・都留野。
 ジダ        地駄
       (南九州では土地をジダという)。
 アンガラ      天韓・甘辛。
 ネリユングラ    練湯之蔵。
 シルカ       汁香。
 シマ        志摩。
 ケ       毛島・毛之国・貝志摩・家島。
 イリムスク     入間宿・西国宿。
 ウスチクート    御主筑人・臼地区人・
           有珠地区大人。
                                 などがあるが、
 ヤゴトノエ     矢事之江・家琴之江は、

 先に見たノボリブノエと共に、
 「○○○ノエ」という名の多い
   ギリシャ名に合う。
 これはギリシャ人移動後の地名である
   可能性が強い。
 大阪市の野江もこれに対応する。

 ◎大学院講義録21

 <「世界宗教!神道」も雑婚も
         歴山大王の遺訓から>抜粋
 
 これをも少し詳しく解説すると、
 卑弥呼も位宮も
 我が国最古の王朝・高句麗系の
 孝霊天皇の皇子女だが、血統はギリシャ系。

 それがさらにソナカと結婚して
 インド系の血を交(まじ)えた。

 その子孫が皇室なのだから、
 万世一系は「純血」は意味しない。

 アレクサンドロス式の
 国際結婚が根本理想だったのである。

 だから神道も同様で、
 天皇はスメラ王(ギ)、
 天皇陵はスメラ山(須弥山)を象り、
 拝礼はアラブ式に土下座する。

 拝む神はギリシャとインドの神に
 仏教の死者祭祀を加え、
 祭礼様式はインドのシンドゥのものを模倣し、
 ユダヤ教のへの当て字。

 開聞→不知火→白日別はシラクサで
 ギリシャ系だったが、

 のち
 シーラバッガ信者=戒律派仏教徒
 という主張で卑弥呼系の人々を洗脳、吸収し、
 新羅になった邪馬壹国(壹與=始祖王)。
 肥後の肥はクマでカリエン系。

 鹿児島県西部から熊本県にかけてが、
 後世まで高族の本拠
 「クマ=熊=高麗(クマ)=高句麗(クロ)」
 の都として栄えた。

 しかし筑紫は肅慎の本拠として、
 北方シベリヤに支族を送り出し続けて
 干支圏を支配した。

 それも
 天智天皇=阿部比羅夫が討った時代まで、
 間違いなく九州に実在したのである。

 ◎大学院講義録24

 <『書紀』は政策史書だと暴露している
       天智関連記事>抜粋

 では『日本書紀』は
 全部の記事がそんな寓意をもった
 「教科書」なのか?。

 欽明天皇から後は寓意が少なく、
 一見史書らしい記録記事ばかりになっている。

 しかしよくみると御存知の大化大戦の前後は、
 史実とはいえない政治的小細工に満ちている。

 そこには
 天智天皇自身が 
 中の大兄の皇子や
 阿倍の比羅夫や金春秋に分裂して、
 孝徳天皇紀から斉明天皇紀、
 そして天智天皇紀にまで、
 まるで別人のことのように
 様々に分裂して分散しているのを見る。

 それは古い歴史ではなく、
 『原日本書紀』を編纂し始めた時の、
 同時代記録なのである。

 企画者自身がそんな
 「限眩(くら)まし」を実行しているのは、
 旧倭国民への深刻な配慮以外に理由はありえない。

 それは大化改新記事で明らかなように、
 天智天皇の革命が
 正当な行為だったという主張と、
 日本政権が主流で、
 倭国が亜流で家臣だという観点で貫かれている。

 天智天皇がなぜ?
 新しい国史を必要としたか、
 そのために倭国の歴史がどう抹殺されたか、
 またそれに対して、
 旧倭国民がどう抵抗したか、
 人間界の実情に少し鋭い眼をもつ人には、
 簡単に理解できる問題ばかりである。

 それさえも考えなかった
 在来の学者たちが
 どの程度の頭脳の持ち主だったか、
 いまさら申し上げるまでもない。

 その説を引用する前にお手持ちの論説文献を、
 この視点からご再検戴くことが、
 絶対に必要不可欠なのである。

 M.K記(責)
http://blogs.yahoo.co.jp/PROFILE/Y1WGxeo8erJfyFcQEz_j_ksX6vA-
 連絡先:090-2485-7908


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