2019年3月17日日曜日

倭人伝が記す 「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

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出典:日本創世紀・小嶋秋彦


倭人伝が記す 「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 倭人伝を注意深く読むと
 倭人及びその社会の性格がみえてくる。

 まず「風俗不淫」とある。

 これを東洋文庫は
 「倭人の風俗は規律正しい」と読み下している。

 確かに大漢和辞典が「淫」字の語義として
 「みだれる、みだす」と上げているので、
 その否定として「みだれない」となり、
 その品性が公正であると説いていると
 理解できる。

 また「婦人不淫不妬不盗」とある。

 こちらの「淫」は性的な品行をいい
 「婦人はみだらでなく嫉妬もしない」
 との意味だが、
 「不妬」はあまり信じられない。

 重要なのは「不盗」とある記述で
 「盗難がない」と理解される。

 この「品行公正」「不盗」は
 完全でないにしても現代20世紀まで
 日本人が公明正大との社会通念として
 体現してきた気風であった。

 21世紀に入った今日、
 そのような風潮は危機に瀕している。

 更に重要な記述がある。

 「其會同座起父子男女無別人性嗜酒」

 と述べられていることである。

 紀元前後には倭では社会習慣として
 「集会〔會同〕」が行われていたのである。

 日本創世紀第2章(9)の「(b)弥奴国」で
 吉野ヶ里遺跡には
 祭壇と大きな建屋はあっても、
 それは「王宮」ではないと説明したように、
 国々は住民による会合を行っていて
 大きな建屋は
 そのためのものであったとみられる。

 「会同」とは
 現代中国でも常用している
 「共同する」との用語で、
 倭人伝の文面からすると、
 それは「集会」である。

 東洋文庫はそこを

 「集会では座席の順序や立ちふるまいに
  父子や男女による区別はない」

 と読み下している。

 この部分の解釈については、
 倭は未だ未熟(未開)な社会だから
 出鱈目に
 座ったり振る舞っただけだとする向きが
 これまでの見方としてあるが、
 それは妥当としない。

 その一般生活の習慣として、
 「大人所敬〔大人(有力者)に対して
  尊敬を示す法〕」や

 「下戸興大人相遥道路~
 〔下戸(下級の者)が
  大人と道で出会った場合〕」の

 作法との説明があり、
 この「集会」においての仕方は
 全く独特であり、極めて特筆に値する。

 そこに指摘されている内容は
 「男女の差別がない」
 「父子といった社会的序列もない」という。

 座る者〔参加者〕は
 一切「平等」という仕様である。

 こうした集会は祭壇の近くで、
 あるいは巫師の同席の下行われたに違いない。

 つまり神の前との観念である。

 それは「神社」の思想でもある。

 日本では現代に至っても
 神社の氏子制は継続されている。

 江戸時代でさえ
 徳川将軍も神田明神や日枝神社の
 一氏子であった。

 歴史の実際として
 「氏」は漢字として「家・家系」だが、

 本来の「ウジ」
 シュメル語の 
 uzu 〔占い師:巫子〕による表現で、
 その巫子に信頼し従う人々を
 「氏子」といったのである。

 巫子は「ヒメ」であったと既に説明した。

 繰り返すと「ヒメ」 
 pa-me 〔呼ぶ‐神託(神の命令)〕が
 その役務であった。

 「氏子」とはその
 「集団(集落など)が奉祭する
  神の命令に従う者たち」
 である。

 それも
 問題を直接的に神に伺いを立てるのではなく、
 前もって氏子たち構成員たちが
 集会を開いて相談しあい
 決定を得られた場合はそれで済みとなるが、
 意見対立でどうにも纏まらない場合に限り
 巫子を通して
 神託を受けるための神事を行ったのである。

 つまり
 物事は神前での平等を基礎に
 決められていたのである。

 そういう社会状況下、
 卑弥呼は倭の共和国全体の最高の
 巫子(女)であったのである。

 倭人には「集会を開く」社会習性があった。

 それは日本文明の特性として涵養され続け、
 後代の「惣」を生む状況を作った
 重要事項であった。

 その祭壇は「神社」として確立され、
 その体制は
 現在世界に類をみない
 博愛共生の思念となっている。

 それは神道などではない
 「神社」の思想である。

 さて、
 倭の人々の集会も
 「神々が集会を開く」との神話伝承に
 影響されたかとみられる。

 その神話の発祥地はメソポタミアであり、
 アズミ族によってもたらされたのである。

 「神々の集会」となれば
 一神教では成り立たないし、
 その社会文化の中に同様な集会を行う
 慣習がなければ
 神話にまで止揚されなかったろう。

 一神教のキリスト教とは縁がないし、
 多神教といっても
 ギリシャ神話では
 たくさんの神がいるものの
 ゼウス神という
 絶対的権勢を持つ神が
 支配しているので集会はない。

 『旧約聖書』の世界の「主〔神〕」は、
 世界に多くの神はいようが、

 「あなたたち(ヘブライ人たち)は
  わたしと契約したのだから、
  わたしはあなた方の「主」であり、
  わたしのいうことに従いなさい」

 という主旨で、
 人々の集会を求めないし
 神々の集会など想定されない。

 これに対し、
 メソポタミアの特定の神話では、
 「創世」の最初期から神々が集会を開いて
 決定したとの物語があるし、
 「人々の集会」
 「神々の集会」へと
 その決議経緯がみえる物語として
 遺存されている。

 まず
 「アトラ・ハシース物語」の人間のからむ
 物語を紹介する。

 日本創世紀
 「(7)アズミ族の正体」で紹介した
 『メソポタミア』の著作家
 ジャン・ポテロの別の著書
 『バビロニア』〔創元社〕によると、
 この物語が粘土版に
 楔形文字で書かれたのは
 紀元前1800年頃という。

 人間のいない神々だけの社会が原初にあり、
 下級の神々はその重労働に耐えられなくなって
 上級の神と同等でないのは不当だと抗議して
 ストライキを始めてしまったという。

 そうした大混乱の中、
 最も智恵のある神が、
 粘土で神々で似た者たちを創り、
 それに労働させようと
 神々の身代わりを作るとの方策を提案した。

 身代わり者の運命には諸条件が付帯されたが、
 この案は神々の全体会議で
 満場一致で可決されたとある。

 身代わりの者こそ人間で
 あの創世の物語である。

 その詳細はさておき、
 神々が会議〔集会〕を開き
 重大事項の決定を行ったのである。

 神々がただ参集することにそう意味はないが、
 「決議(決定)」機能がそこにあった。

 これは
 古代メソポタミアの人間社会にあったことが
 想定される

 重大事項として認識されるべきである。

 さらに
 この「神々の集会」の状況や
 決議に至るまでの過程を
 粘土版の資料から紹介して
 「原始民主制」と主張した
 トゥル・ジェイコプセンの著書に詳しくみる。

 彼の研究は『西洋古代史論集』や
 『世界の歴史』〔岩波書店〕などに
 翻訳されている。

 彼はまず市民の集会が行われていたからこそ
 「神々の集会」が
 伝えられているのだとの見解を述べている。

 その著書 
Praimitive Democracy in Ancient Mesopotamia 
 から興味ある要点を指摘する。

 彼は述べる。

  神の世界にみられる集会は
  広い民主的基礎に依拠している。
  アダト神の神話を参照すると
  「全神の集会」で、
  参加には性別の制限はなく
  女神たちも男神たちと同様に
  その討議で積極的な活躍ができた。

  メソポタミアの最高の権威は
  この神々の集会にあった。

  そこに述べられている男神女神の区別はなく
  全員が参加するとの仕方は、
  倭人伝「男女無別」と記すのに合致する。

 ジェイコプセンは
 詩歌をかなりたくさん紹介しているが、
 その中に次のような詩句がある。
 初めの部分はその解説である。

 集会は常に ubshu-ukkin と呼ばれる
 大きな所で開催される。
 
 神々が到着すれば
 同様に参会のため遠くからやってきた友人や
 縁故者と会い抱擁し合う。

 その守護された場所で
 神々は高価な料理を囲んで座る。

 ワインや強い酒がすぐに彼等を
 幸福な気遣いのいらない雰囲気にする。

 畏れも心配も消え失せる。

 こうして会合はより重大な事項に
 取組む用意ができる。

  彼等は発言を決めて宴会の場に坐す
  彼等はパンを食べ飲酒する
  甘い酒は彼等の恐れを追払う
  彼等は強い酒を飲むに従い喜びを歌う
  彼等は極まって陽気となり心は高揚する
  こうして彼等の闘士マルドックに向って
  彼等の厳粛な決定を布告する。

 この様子は倭人伝の「会同」記述の終わりに

 「人性嗜酒(倭人は酒をたしなむ)」

 とあるのに整合しており、
 その「嗜酒」は
 単に飲酒が好きだというのではなく、
 集会においては飲酒しながら
 相談を進めるとの趣旨で、
 メソポタミアの仕様が踏襲されたものである。

 この集会は ubshu-ukkina と呼ばれる
 大きな定められた場所で開催されるという。

 その ukkin(a) こそ
 シュメル語の「集会」「会議」名である。

 『古事記』の天石屋戸の条に

 「是を以ちて八百萬の神、於天安之河原、
  神集て、訓集云都度比」

 とある。

 『日本書紀』には
 天照大神と素盞鳴尊の誓約の場で

 「一書曰はく、
  日神素盞鳴尊と天安河を隔てて、
  相對ひて乃ち立ちて誓ひて曰はく……」

 とある。

 「神道大辞典」には

 「アマノヤシカワ天安河、高天原所在の河、
  天八湍、天八十河とも書く、
  群神の集会は多く此の河畔で行われた」

 とある。

 これらの用語を「神々の集会」の祖地
 シュメルの用語として解釈すると、

 まず「安河」は音読で
 「アンカ」で明らかに 
 unken の音写である。

 「アマ:天」は 
 an-mah〔天・高い〕で
 「高天原」表記に対応する。

 「都度比:ツドイ」は 
 za-dug〔人-たくさん〕で
 「たくさんの人」 が基である。

 「安之河原」の「カワラ:河原」は
  ka-bal〔口-交換する〕で「会話する」、
 「安:ヤス」は 
 is〔地〕で「(会話する)場所」
 とすることができる。

 このように
 「神々の集会:神集い」は
 メソポタミアが祖地である。

 「神無月」「神有月」と
 年に一度神々が集会を開くとの伝承がある
 出雲〔島根県〕にも、
 出雲大社の所在地に「宇迦」との山名地称があり、
 ukkin〔集会〕名が与えられており、
 大社の所在地は
 本来神々の集会の場だったのである。

 アズミ族の領域奴国にも集会場はある。

 「宇賀神社」〔福岡市中央区大宮〕で
 「宇賀」が ukkin に依る。

 なぜそう解釈できるかの理由は
 同社を「高宮」といい、
 周辺に「多賀」との地称が連なるからである。

 その「タカ」は
 倭名抄
 筑前国那珂郡田来郡名を継承するもので、
 dug〔壺〕の音写に依る。

 前述した集会の際神々は酒を飲む。

 倭人伝の「性嗜酒」とある飲む酒を
 入れておく容器名で、
 この壺は単なる土器製の容器ではなく、
 特別にシュメルでは sakir と呼ばれた。

 現糸島市の元岡遺跡から発掘され、
 現在同市の伊都国歴史博物館に所蔵されている

 「ひょうたん型土器」 といわれている

 瓢を立てた頭部には穴(口)はなく、
 太く脹らんだ胴部に
 大きな穴(口)が開けられている壺である。

 この壺は高さが31、
 胴幅22センチメートルの大きさで、
 完全なまま出土したのはここだけで
 その外
 福岡市内の那珂遺跡や
 壱岐のカラカミ遺跡から
 破壊されたものが出土している。

 また、
 遠く離れた奈良県桜井市
 三諸山の山の辺遺跡から
 小型ながら概念を同じくする胴に
 大きめの穴が開けられた壺が出土している。

 集会の際にはこの器に
 お酒「御神酒」を入れ、
 細い筒〔ストロウ〕を
 穴に差して回し飲みにした。
 
 そうすれば、共同意識が高揚する。

 この壺〔タカdug〕が集会に用いられる 
 sakir である。

 『古事記』に「安之河原」との表記があった。

 「安:ヤス」を「場」との解釈を示したが、
 漢字表記の「安」には興味ある事件がみえてくる。

 「安」は第2章(9)の(c)斯馬国」で述べた
 「安野」〔福岡県朝倉郡夜須町〕名と
 「夜須」と同称視される。

 実際、
 その周辺に「安川(河)」はある。

 現在、
 甘木市内を流れる小石原川は
 「安川」であったらしい。

 市名「甘木」にしても前述の通り 
 an-mah 〔天・高い〕で
 「アマハ(き)」である。

 その中心市内の甘木地区に
 「須賀神社」が鎮座しており、

 同名も集会のための酒器名 
 sakir と判断でき、
 ここで何らかの集会が行われたと教えられる。

 どいいう集会かは須賀神社近くに
 「屋須多神社」が鎮座していることで明白である。

 同名社は
 大牟田市八本町付近特有の神社である。

 つまり
 邪馬臺国の卑弥呼を傍国の国々の首領が
 参集して相談の上、
 統合の巫女とすることを決めた
 集会の場がここである。

 集会での決議後それを記念してか
 卑弥呼の祭場名の聖所を
 ここに奉祭したと判断される。

 安川(小石原川)も
 古代には
 今よりかなり野放図な流れで幅も広く
 須賀神社の鎮座地辺りまで
 「河原」であったのだろう。

 邪馬臺国の卑弥呼を
 〔共和国〕共通の「巫女」と
 決定した首領の一人として、
 夜須町(斯馬国)の長者〔大人〕の様子を
 日本創世紀第2章で紹介したが、
 もう一国の参同者を紹介する。

 傍国の斯馬国に
 次いで二番目に記されている国
 「巳百支国」で、
 同国の当該地は
 現嘉穂郡穂波町の「椿」名の地である。

 平安時代には今の地名区域に限らない広域が
 「椿荘」との荘園であった。

 「巳百支」は漢音で si-pai(po)-gi で
 「ツバキ」はその遺存名といえる。

 隣りの桂川町内に「寿命」との町名がある。

 これは 
 za-maha〔人・大きい(上位の)〕の音写で、
 「斯馬」 名と同根である。

 倭人伝に「大人」とある語義で、
 そこに「首領、長者」がいたと示唆している。

 その隣りの地称「中屋」は
 夜須町の「中屋:ナカツヤ」と同じく
 na-gadu-e 〔神殿の神職を指名する〕により、
 「巳百支」国の首領も斯馬国の首領と共に
 「安之河原」の集会に参加し、
 卑弥呼の推薦で活躍したのである。

 そして、
 その意向が是認されたので、
 その由縁をもって同地に
 「天道」〔寿命の東隣の地称〕と
 邪馬臺国の太陽信仰を
 招来させたと推測されるのである。

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908

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