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《東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路》
歴史学講座「創世」
歴史研究家
小嶋秋彦
※『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代
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※「神聖の系譜」出版協賛のお願い
「東征軍を引導したヤタガラスの行幸遍路」
(1) 大淀町〔吉野郡〕
大「オウ」ευ(ευς:ευー)
立派な、勇敢な、良い、役に立つ、有用な
淀「ヨド」yudh 戦士、兵
「オウヨド」ευーyudh
〔立派な(役に立つ)兵〕:ヤタガラス軍団
(2) 下市町の 市:大淀町上市の 市「イチ」
yudh 戦士、兵、戦闘
※東征軍は五條市から東方へと引導された
(3) 吉野町 柳「ヤナギ」
(Sk.)yonaka
〔Iwvia(イオニア)のインドでの呼称〕:
ギリシャ人
※アレキサンダー大王軍に参加した
イオニア人の後裔がバクトリア(中央アジア)に
残り、ヘレニズム文化の担い手となったが、
紀元前2、1世紀頃
ヒンズークシ山脈を越えてインドに侵入し、
その都市〔シャーカラ〕はまた
Yonakā-nam〔ギリシャ人の都市〕
と呼ばれた。
※<中村元「インド古代史」>
第二節 メナンドロス王
第二章 ギリシャ人のインド支配
「インド統治」
かれはインドに進入してからは
西北インドの
シャーカラ
(Śakala、パーリ語Skala、現在のŚiālkoţ)に
都した。
それはChenāb川と Rāvi川との中間に
位置している。
それは叙事詩にもあらわれている
都市であるが、
かって
アレクサンドロスやデーメートリオスに
征服された。
地理学者プトレマイオスによると、
この都市は
Euthymedia または Euthydemia と
呼ばれたというが、
おそらくエウティデーモス王家と
関係があったためであろう。
この都市はまた
メナンドロス王に征服されたのである。
後に6世紀初頭に
匈奴王ミヒラクラ(Aiԧiraķula)の
首都にもなった。
メナンドロスの当時、
シャーカラは「ギリシャ人の都市」
(Yonakānaṃ…nagaram)と呼ばれるほどに、
ギリシャ人の支配的勢力が強かった。
シャーカラは物資が豊富に集積し、
極めて富裕であった伝えられている。
『ギリシャ人の国に(Yonakānaṃ)、
多くの物資交易の中心地である
サーガラ(Sāgala)
という都があった。
その地方は山河の風光が明媚であり、
麗しく、
遊園・庭園・林・沼・蓮池があった。
山河や林によって美しい(この都は)、
学識ある技術者に設計せられ、
仇敵は掃討せられ、
危難に襲われることがなかった。
他種多様な堅固な望楼と塁壁があり、
優秀なる城門と入口あり、
王宮は深い濠と白い壁に囲まれ、
街路・四衙・十字路は区割整然たり、
高価な品物をよく陳列した市場にみち、
種々なる幾百千の
「施しの家」(dā-nagga)に限られ、
ヒマラヤ山脈にも似た
豪壮な幾百千の邸宅に飾られ、
象・馬・車・歩兵に充ち、
容姿端麗なる男女の
群れが列をなし、群衆が充満し、
幾多の
クシャトリヤ・バラモン・
ヴァイシャ・シュードラ あり、
種々なるしゃもん・ばらもんの会衆は
会釈を交わし、
種々多様の学問ある識者が居住し、
ベナレスの衣(Kāsika)・
コートゥンバラ衣(Koțumbaraka)など
種々なる衣服の商品に満ち、
四方に向かって商品を
良く陳列されている市場から芳香が匂い、
人の欲する多くの宝石に満ち、
四方に向かって商品をよく陳列した
貴重品商人の群れが集い、
貨幣(kahāpana)・金・銀・銅・石材が
充満し、
輝く鉱山(のごとく)であり、
財・殻・富・資料は豊富であり、
倉庫は充満し、
飲食物多く、多種の硬くあるいは
柔らかい食物・美味・飲料・菓子もあり、
ウッタラクル(インド伝統の理想国土)
の如くであり、
穀物は備わっていて、
あたかも天上の都
アーラカマンダー(Āļlakamandā)の
如くであった。
〇「柳」地区は吉野町北側、
大宇陀町(宇陀郡)との境界に接し、
その境界に
「烏塒屋山(からすのとややま)(659m」
がある。
「塒」字はシ・ジ(shih)と読み、
「ねぐら」の語義。
よって、同表記は「烏のねぐら屋」となる。
これを考慮すれば東征軍は上市から小島峠、
香束へと、柳の中竜門から左へ折れ、
烏塒屋山付近を越えて
大宇陀町の栗野〔宇陀郡〕へと侵略した。
なお、当該の山は烏ノ士時屋山ともされた。
(4) 大宇陀町栗野(くりの)〔宇陀郡〕
栗野「クリヤ」
(Sk.)kara-ya(karasayati)引く<引導する>
※久留野〔五條市〕と語源を同じくし
「ヤタガラスの引導」を表し、
東征軍がこの地に侵攻したとの遺称である。
阿紀神社〔大宇陀迫間町〕
『延喜式神名帳』大和国宇陀郡 阿紀神社 「アキノ」
阿紀「アキ」αγος〔agos〕指導者、首長
αγινεω〔agineo〕
導く、案内する、連れて来る。
この地域は「アキノ:阿騎野」であった。
äγω〔ägo〕導く、運ぶ、指揮する
※同神社の祭神の第一は
「天照皇太神」である。
(5) 榛原町〔宇陀郡〕
〇榛原「エハラ」
ευ-πορεω〔eu-poreo〕
うまくゆく、成功する、うまく通り抜ける。
※東征軍大和盆地に侵入したとの成功をいう。
しかもここに留まったにではなく、
この地を「うまく通り抜けた」のである。
ともかく、
この地が侵攻した所との表意である。
〇栗谷「クリヤ」
(Sk.)kara-ya(karasayati)引く<引導する>
※久留野〔五條市〕、 栗野〔大宇陀町〕名の
語義に同じ。
つまり、
「ヤタガラス」に引導された東征軍が
ここに移ってきたことをします。
〇八咫烏神社「延喜式」神名帳「ヤタカラス」
(現)宇陀郡榛原町高塚 祭神:鴨建角身命
〇柳「ヤナギ」:栗谷・高塚地区から北方、
(現)榛原トンネル(近鉄大阪線)の西側辺り
(Sk.)yonaka〔Ιωνια(イオニア)、
インドでの「ギリシャ人」との呼称〕
※東征軍はこの辺りから
西方桜井市初瀬方面へと移動、
侵攻していった。
(6) 桜井市
※東征軍は柳〔榛原町〕辺りから
現在の国道165線あるいは
近鉄大阪線に沿って西方へ侵攻し、
三輪山の南麓から西麓へと廻り込んで、
桜井市の箸中から
天理市の柳本町・中山町辺りに至り、
そこに本拠を設営した。
〇檜原神社〔桜井市三輪:三輪山の西北麓〕
「エハラ」:宇陀郡榛原町の「エハラ」に同じ
ευ-πορεω〔eu-poreo〕成功する。
※遂に東征軍は
大和盆地に定着することに成功したのである。
〇大兵主神社(現)桜井市穴師
『延喜式神名帳』大和国城上郡
穴師坐兵主神社名神大「アナシ」
穴師「アナシ」
ανασσειν〔anassein〕
支配する、支配者である
αναξ〔anask〕支配者、王
〇太田〔桜井市箸中・巻野内(纏向)の
西側に接する地区〕
『延喜式神名帳』大和国城上郡
他田坐天照御魂神社大「ヲサタノ」
「太田(他田)(Grk.)αυτη〔auti〕
戦争、戦闘、音響(鬨の声)
〇太田市〔橿原市:桜井市との境界、
「太田」の西側〕
「オウタイチ」
(Grk.)αυτ-ερετης〔aut-eretis〕
戦士で(船の)漕ぎ手を兼ねる者
〇神武天皇聖蹟〔桜井市茅原〕
(7) 天理市
柳本「ヤナギモト」:
yonaka(ギリシャ人)の本拠
※ここには「崇神天皇陵」がある。
〇檜垣「ヒガイ」
(Grk.)ηχη〔hxai〕音響、どよめき、鬨の声
※「太田」の祖語αυτηと同義
「太田」の北側近く、柳本の西隣り
〇爲川「イカワ」〔田原本町:南、北〕
(Grk.)ηχεω〔ixew〕響く、鳴く,
ηχη〔hxai〕の動詞形
※東征軍は軍略の成功を
「鬨の声」を上げて(響かせて)
祝ったのである。
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