2019年3月17日日曜日

アベについて(1)

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アベについて

※出典:著者・加治木義博

 ◎垂仁天皇の邪馬壹国

 <あらすじ>抜粋

 阿部秀雄氏は景初二年説である。

 氏は<卑弥呼>あての詔書の冒頭にある

 「制詔親魏倭王卑弥呼 帯方太守劉夏 
  遣使送汝大夫難升米次使都市牛利…」に

 よって『詔書が「使」と表現していることは、
 <公孫氏>の太守から魏朝に派遣された
 外交使節であったという任務を
   明らかにしている。

 もしも<劉夏>が魏直属の太守であったならば
 「遣使」と表現されたはずがない。

 だか公孫氏滅亡前でこ年が正しい。
 というのである。

 「使」の一字が問題なら、
 そこにある「帯方太守劉夏」の六字は
 更に大問題である。

 阿部氏の主張どおりなら別にもう一人
 「魏の帯方太守」がおり、
 劉夏は敵の敗残者で現職ではない。

 それなのに詔書が「帯方太守劉夏」と、
 事実と違ったことを明記するだろうか?。

 漢文の文法には個人差があり
   文字には誤字がある。

 読み方だけで『魏志倭人章』などの謎が
 解けると思うのは、
 余りにも単純な思考力の生む錯覚でしかない。

 「駄目な陳寿の『魏書倭人章』」

 『太平御覧』「魏志」と<陳寿>の
 『魏志倭人章』とは「倭国本」と
 「其国本亦」と書き方が違っている。
 「倭国」は固有名詞だから
 「本」は「もと」を意味していると分る。

 所が「其国本亦」の方は
 「その国もと」なのか
 「その国本(コクホン)」なのか分らない。
 <陳寿>の方が曖昧である。

 次に「太平御覧」は
 倭国が乱れた年代を
 「後漢の王・霊帝の光和時代」と
 はっきり書いているのに、
 <陳寿>はそれには触れない。

 『太平御覧』なら
 <卑弥呼>が女王になった時期が、
 霊帝時代だと分るが、
 <陳寿>の方は全然わからない。

 その即位の原因になった倭国の内乱も、
 いつのことだか分らない。

 これでは謎だらけで答の出ようがない。

 ここでも<陳寿>の
   『魏志倭人章』は駄目である。

 『太平御覧』なら郡使の質問に答えた倭人が、
 <卑弥呼>は自分で
 「私はもう大変なお婆さんだよ」
 と言ったという記事があり、
 その「年已長大」は
 正始元年ごろろの年齢だと分る。

 <我田引水の阿部説>抜粋

 阿部秀雄氏は景初二年説である。
 氏の『卑弥呼と倭王』(昭和四六=講談社刊)は、
 卑弥呼あての詔書の冒頭にある
 「制詔親魏王卑弥呼帯方太守劉夏 
  遣使送汝大夫難升米次使都市牛利…」に
 よって次のように主張する。

 『(155頁)詔書が「使」と表現していることは、
  魏の皇帝と魏朝直属の太守とい関係で
  あったとすれば、
  とうてい考えることのできない
  特異な表現であることを
  みきわめる必要もある。』
 『(159頁)詔書中の「使」という表現は、
  公孫氏の太守から魏朝に派遣された
  外交使節であったという
  任務を明らかにしている。
  つまり
  劉夏が魏朝の帯方太守ではなかったために、
  魏朝の詔書としては、
  太守の劉夏が「使節を派遣す」
  と表現するほかはなかったわけである。
  もしも劉夏が魏朝直属の太守であったならば、
  「遣使」と表現されたはずがない。』
  (以上原文のまま)。

 だから公孫氏滅亡前で二年が正しい。
 というのである。

 氏はその「使」は
 「外交使節」のことだというが
 「遣使」は必ず「外交使節」を
 意味する訳ではない。
 単なる「使いを遣わして」と読んでもいいし、
 もちろん臣下が君主に対して使っても
 別に「特異な表現」でも何でもない。

 それより「使」の一字が問題なら、
 そこに明記してある「帯方太守劉夏」の六字は
 更に大問題である。

 阿部氏の主張どおり劉夏が
 「公孫氏の太守」なら別にもう一人
 「魏の帯方太守」がおり
 劉夏は滅びた国の敗残者で現職ではない。

 それなのに「使」の一字を使い分けるほど
 神経質な「魏の皇帝」の詔書が
 「帯方太守劉夏」と、
 事実でないことを明記するだろうか?。

 何の説明もないのは彼が立派な現職の
 「魏の帯方太守」だからである。

 間違いなく「魏朝直属の太守」なのに、
 平気で「使」の字が使われている。

 阿部説は一体何を立証したのであろう?。

 漢文の文法には個人差があり文字には誤字がある。

 漢文の読み方で
 『倭人伝』などの謎が解けると思うのは、
 ごく不注意な短絡思考が生み出す錯覚でしかない。

 ◎異説・日本古代国家

 <欽明天皇が初代か>抜粋

 『日本書紀』が欽明天皇紀から
 書き始められたという証拠としては、
 注だけでは弱いとお思いの方に、
 もう一つの証拠を御覧に入れよう。

 『日本書紀』第23舒明天皇紀は、
 推古天皇の死後、
 だれが皇位を継ぐかで動揺する関係者たちを、
 詳細に描写した部分に始まるが、
 その中心人物で、
 決定権を握る蘇我蝦夷が病気になり、
 代行者、阿倍臣、中臣連、河辺臣、
 小墾田(オハリタ)臣、大伴連ら重臣を通じて
 山背大兄王子に伝えた言葉がある。

 「磯城(シキ)島の宮に御宇
 (あめの下治(し)らしめしし)天皇の世から
  近世に及ぶまで」

 という語り出しである。

 これは、うっかりしていると、
 神武天皇の世から、
 という風に思えるかも知れないが、
 磯城島宮御宇天皇というのは
 欽明天皇のほかにはない。

 蘇我蝦夷といえば、
 その後
 「天皇記」、「国記」などを焼いて自殺した、
 あの人物である。

 その蝦夷がわざわざ
 初代天皇を欽明天皇だと指摘しているのである。

 それも、
 天皇を指名するという
 国家の最前の大事を決定するための、
 荘重かつ厳粛な宣言の冒頭を、
 権威あらしめるための、第一声である。

 それがとんでもない間違いであったとしたら、
 喜劇にしかならない。

 <歴史の変身だった神話>抜粋


 (父)応神大皇

  母の父─(母)─皇子女の順

  品陀真若王──────高木之入姫───┬─額田大中日子命
                     ├─大山守命
                     ├─イザの真若命
                     ├─大原郎女(イラツメ)
                     └─高目郎女

  品陀真若王──────中日売命────┬─木之荒田郎女
                     ├─大雀命(仁徳天皇)
                     └─根鳥命

  品陀真若王──────弟日売命────┬─阿倍郎女
                     ├─阿具知能三腹郎女
                     ├─木之菟野郎女
                     └─三野郎女
 
  ワニの比布礼のオホミ──宮主矢河枝姫─┬─宇遅の和紀郎子(イラッコ)
                     ├─八田若郎女
                     └─女鳥王
  ワニの比布礼のオホミ──袁那弁郎女────宇遅之若郎女

  咋俣長日子王──────息長真若中姫───若沼毛二俣王

 <応神朝は鹿児島王朝>抜粋

 前後もご覧戴くとすぐわかるが、
 お妃(キサキ)の名も、
 その父さえもわからない系譜の中で、
 子と女の区別が、
 どの程度まで信頼できるか、考えてみてほしい。

 この場合は、それより、
 宮主八河枝姫の別名が、もう一つあって、
 それが<イナミ>、
   というのだということのほうが納得しやすく、
 また重要な意味をもっているのである。
 
 次は迦具漏姫である。

 これは多少複雑な混乱をみせている。

 弟日売命の子の
   阿具知能三腹郎女を見て戴きたい。

 阿は可というツクリをもっているために、
 『記・紀』の中でも<ア>と<カ>との両方に
 使われていると考えるほかないものに多く
   出会う。

 知はこの系譜の中でも遅という字が
 いくつも使われている。

 この遅と漏は間違いやすい形をしている。

 この<カグロ>と<アグチ>は
 本来同名であった可能性がある。

 これにはもう一つ証拠がある。

 迦具漏の下にある川原田である。

 これは縦横(タテヨコ)になっている
 三腹とそっくりである。

 古字では三を川と書いたか、
 あるいはこの中間の文字彡(サン)であって、
 どちらとも判断がつかないものの
 実例だとも考えられる。

 と、田は
 本来彡ハラ<の>を意味する都(ツ)であって、
 <彡腹都>と書いたものを<川原田>と
 読んだものだと考えるほかない。

 迦多遅王は
 迦具漏と同じものだと一見してわかる。

 この迦を遠とよみちがえれば
 遠多遅<トオチ>となる。

 <トホシ>はその訛りにすぎない。

 玉は高を<タ>、目を<マ>とよんだもの。

 <オシサカ>は<オキナカ>、
 <ハタ>日は八田、
 <メトリ>は<ネトリ>、
 幡日之(ハヒシ)と速乾刺(ハフシ)、
 阿貝能(カノケノ)二股(タマタ)と
 読めるように消えかけた
 阿具知能三腹、阿貝(アベ)と阿倍、
 大雀と大原、
 大雀と大山守、
 大雀(オオサザキ)と
   大山宿(オオサスキ)→大山守、
 中日と長日と中姫と長姫、

 こう見てくるとほとんど全てが、入り混り、
 転訛する可能性があることに、
 お気づきになったと思う。

 ◎KOFUN

 <世襲の科学者、阿倍朝臣一族>抜粋

 では一体、
 だれがこんな大規模な測量や、壮大な配列や、
 複雑な暗号仕掛けや、
 意味をこめた設計を行なったのであろうか?

 またその巨大な構想を実現するために、
 一体どんな測量器具を用い、どんな方法で、
 世界のメートル法にさきがけてその尺度を使い、
 測量を行なったのであろうか?

 この手がかりをつかむのは
   それほど難しくはない。

 すでにみたように、
 これらの直線は元正天皇陵にも及んでいた。

 元正太上天皇が死んだのは天平二十年。

 その四月、御大葬養役夫司になり、
 また後に天平勝宝四年(752年)、
 光明皇太后の死に際しても、
 葬送装束司になったのは
 阿倍朝臣(あべのあそん)嶋麻呂である。

 阿倍氏は安倍氏とも書き、
 賀茂家と共に陰陽師(の家系である。

 土地の吉凶を占い、方位、天文、暦数、相地を
 司(つかさど)り、当然、古墳の造営に際しても、
 その設計、配置、日の吉凶を指導した。

 もちろん、
 こうした仕事は常にあるものではなく、
 天皇や皇族の死の際にだけ世襲の任務として
 臨時に担当したものらしく、
 のちに陰陽寮が置かれるまでは、
 他の官職の兼任であった。

 この前後の阿部一族の仕事ぶりを
 『続日本紀』でみてみると、
 次のようになっている。

 神亀元年(724年)七月、
 聖武天皇夫人の
   石川大越比売(おおいひめ)の葬事を
 監護したのは阿倍朝臣広庭であった。

 天平十九年(747年)十一月、
 国分寺設置に際し、
 道を分けて寺地を検定したのは
 阿倍朝臣子嶋であった。
 天平神護二年(766年)九月、
 五畿内巡察使として百姓の民情を視察し、
 田畑の面積と条件による得失を検したのは
 阿倍朝臣毛人(えみし)であった。

 これは測量を意味している。

 神護景雲元年(767年)八月、
 阿倍朝臣東人(あづまひと)は伊勢守として
 任地にあり、度会(わたらい)の郡にある
 等由気(とゆけ)宮(豊受大神宮)=
 (外宮(げぐう))に瑞雲(ずいうん)が
 出現したことを奏上したため、
 景雲と改元したという詔(みことのり)がみえ、
 彼は従五位上に昇任された。

 天文家の才能をもっていたことが認められる。

 その翌二年(768年)
 阿倍朝臣浄成(きよなり)(安倍清成)は
 鋳銭司(ちゅうせんし)長官
   (造幣局長官)になる。

 宝亀元年(770年)八月、
 称徳天皇の作山陵司(御陵造営長官)になる。

 その後、
 宝亀四年(773年)に
 再び鋳銭司長官を兼ねている。

 鋳銭は硬貨を造る仕事で、
 当然、金属の熔解や、合金を作る方法、
 金属材料の分析と分量、温度の決定、型の
 作成といった科学技術に
 精通していなければならない。

 阿倍というのは、
 科学者の家系であったといっていい。

 那須の殺生石伝説で有名な、
 金毛九尾の狐を退治したとされる
 安倍泰成(あべのやすなり)も
 陰陽(おんみょう)博士であった。

 陰陽道とは、
 中国の陰陽(いんよう)五行説による
 術とされてきたが、
 この古墳の配列や中国にも見られない
 遠距離測量、
 それにメートル法に一致する尺度等は、
 すべて中国とは無縁のものである。

 また時間的にみて、
 すでに3世紀末には古墳時代に入っている。

 いわゆる陰陽道が盛んになったのは
 中国では唐代であり、
 4、5世紀あとのことである。

 遣唐使によって唐の文物が輸入されると同時に、
 いわゆる陰陽道が入ってきて、
 とりいれられたが、
 それ以前に日本には別の科学技術
 それも古墳時代の驚異の測量技術に
 象徴されるような大文明が、
 少なくとも畿内には実在したのである。

 それは一体どこから来たものであったのか?

 <俀王・阿輩は推古天皇ではな>抜粋

 この俀王は阿毎という姓をもち、
 阿輩と呼ばれていたとある。

 アマイまたはアハイという姓だったという。

 馬という字はマまたはバと発音するが、
 バは中国本来の音ではなく、
 日本での訛(なま)りである。

 だから
 日本語にはマイとバイという変化が実在する。

 また百人一首の取り札(ふだ)はすべて、
 ひらがな書きになっているが、
 それには一字も濁点がうってない。

 すべて清音になっている。

 こうした発音もまた実際にあって、
 今でも多くのものにそれが見られる。

 バイの清音はハイであるから、
 このアマイとアハイは
 方言差だということがわかる。

 そしてこの二つの方言差を生み出した
 もとの名がアバイだったこともはっきりする。

 『続日本紀』で私たちは、
 古墳測量者がだれであったか見た。

 それは阿倍一族であった。

 私たちは阿倍をアベと発音するが、
 よく見ていただくとわかるように、
 それはアバイと書いてあるのである。

 この阿毎をアメと読み、
 天皇のことだとするのがこれまでの定説だが、
 このときの天皇は
 推古天皇ということになっている。

 その名は
 『豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)』
   である。

 アメ、タリシヒコとは似ても似つかないし、
 その前後にも、アメの名をもった天皇はない。

 いわんや推古は女帝である。

 『隋書』には「王の妻は鶏弥と号す」とある。

 全くの別人で、推古天皇だと思う方が、
 どうかしているのである。

 私(加治木義博)は
 この『隋書』の[俀国伝]を、
 俀と書いてきたが、
 これは原文にその文字が使ってあるからである。

 だが従来は倭国が正しいとされて
 皆「訂正」されている。

 確かに文字の場合は、
 写し間違いや、用字の違いが常につきまとい、
 それだけでは証拠として不充分である。

 でも、
 それを間違いだと決めるには、
 それは間違いだという証明が
 さきに成立していなけれぼならない。

 だから私(加治木義博)は、
 原文どおり「俀」としてきたが、
 別にこの俀の字を引き合いに出さなくても、
 王が男王であり、阿倍氏であり、
 日の出観測を主な政務にしていて、
 ここで少し飛躍して想像をまじえると、
 恐らく唱更国の王であり、
 『記・紀』の天皇家と
 私たちが信じてきた推古天皇たちとは
 別の王家があったのではないか?
 という気がしてくると思う。

 <太子「利歌弥多弗利」の正体>抜粋

 だがこの当て字を精密に分析してみると、
 その名は間違いなく
 「倭(ウワイ)王」のものである。

 それはのちに
 阿倍と当て字されて
   「アベ氏」のものになったが、
 本来は「阿」は「オ」に対する当て字であり、
 「輩」の「ハ」は、
 今でも私たちが「……ワ……ダ」
 という言葉として使う
 助詞の「ワ」を、「……ハ」と「は」の字を
 使う習慣が残っているように、
 「ワ音」で発音されていたから、
 「阿輩」という文字は
 「オワイ」という発音に対する
 当て字だったのである。

 では<オワイ>とは何か?

 南九州の人は、
 上井(ウワイ)という姓の人を
 「オワイ」さんと発音する。

 沖縄語の
 「ウ」は鹿児島帝では
   「オ」に変わるからである。

 だから
 「阿輩」はもともと
   「ウワイ」と同じものだった。

 <ウワイ>はいうまでもなく
 「倭(うわい)」のことである。

 だから
 阿輩鶏弥とは「倭王(キミ)」のことだったのだ。

 倭はいうまでもなく仏教徒だから、
 卑弥呼系の王朝であって、
 ヤマ神を祭る壹與系の人々の政府ではない。

 このことはこれまで謎とされてきた
 太子「利歌弥多弗利(リカミタフツリ)」
 という名乗りの真意を教えてくれる。

 なぜならこの名には
 「アミタフツ=阿弥陀仏」という
 特殊な名(みょう)号が入っているからである。

 「リクアミタフツリ」と聞いた斐清が、
 当て字したから、
 クとアが一つに聞こえて
   「歌」と書かれているのだ。

 最初の「リク」は、
 倭人の故郷である「琉球」の沖縄~鹿児島語が、
 さらに本土語化したものである。

 では最後の「リ」はなんだろう。

 中国で
 「浮屠(ふと)」と書くのは「仏」のことである。

 私たちが「ブツ」と発音するものを、
 中国では「フト」と発音する
   「浮屠」で表している。

 だから
 私たちの「ツ」と、中国人の「ト」とは、
 文字で書くほどハッキリ分かれたものではなく、
 <ツ>と<ト>の中間音で、
 聞く人によって
    <ツ>にも<ト>にも聞こえたのである。

 <古代愛媛は沖縄人の国>抜粋

 ただし、以上の発音は、
 この地方が
   九州・沖縄系の人々に占められていた、
 という前提が必要である。

 これが証明できなければ、
 それは偶然の一致といわれても仕方がない。

 だがご心配はいらない。

 愛媛県が
 古く沖縄の人々の国であったことを
 証明するものが、
 この県内には大量に現存している。

 そのうち最もわかりやすいものをあげてみよう。

 それは山を<モリ>と呼ぶことである。

 全県下と、
 高知県の一部にわたって
 山のかわりに森と書いた山が分布している。

 沖縄では森林を<ヤマ>という。

 そして聖なる林をウダキ(御嶽)といい、
 神社を作らずに、
 こうした森や山を神社として拝み、
 それを<モリ>というのである。

 この山を森という習俗は、
 遠く飛んで東北の青森、岩手などにも見られる。

 沖縄と東北では正反対だと思われようが、
 八幡(はちまん)太郎義家に討たれた
 東北地方の大豪族は、
 貞任(さだとう)、宗任(むねとう)の
 安倍一族だった。

 すなわち倭王阿輩の一族であれば、
 地名も共通のものをもっていて当然である。

 また
 岩手、秋田にまたがる大山魂は
 「八幡平(はちまんたい)」の名をもっている。

 長浜と宇和島の間には
   「八幡(やわた)浜」がある。

 ついでに
 阿輩が阿倍への当て字だという証拠を
 お目にかけよう。

 裴世清が長浜の海岸へついた時、
 「隋書」には
 「倭王、小徳(官位)の阿輩臺を遣わし、
  数百人を従え、儀仗(じょう)を設け、
  鼓角を鳴らして来り迎えしむ」
 という大歓迎をうけたことを書きとめている。

 『書紀』の[推古紀]十六年八月の
   記事をみると、
 この阿輩臺に一致する名をもった人物が、
 裴世清を迎える客導者という
 任務を与えられたと出ている。

 その名は阿倍鳥(とり)の臣(おみ)。

 臺の字は<タイ>、<トイ>の発音をもつが、
 鹿児島方言では鳥を<トイ>と発音する。

 姓、名ともに完全に合う。

 阿倍氏はこれまで謎の氏族であった。

 [孝徳天皇紀]即位前紀で、
 突然左大臣という最高位に
 阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)が登場するが、
 これが突然と感じられるほど
 この氏族は目立たない存在である。

 景行妃高田媛の父、阿倍木事(こごと)。

 継体妃阿倍波延比売(はえのひめ)。

 [敏達(びだつ)紀]の勅使、
   阿倍目連(めのむらじ)。

 用明(ようめい)代に高麗に使いして
 狛(こま)朝臣と号した阿倍比等古(ひらこ)臣等が
 倉梯麻呂に先行するが、
 奈良平安両期にかけての大族ぶりとは、
 あまりにも違いすぎている。

 いま阿倍氏の正体がわかってみると、
 その突然の登場に意味のあることが、
 明らかになる。

 また[推古紀]中の遣使記事が、
 もともと阿輩王家のものであって、
 天皇名とはかかわりのないものであったことも
 推測がつくと思う。

 とすれば
 『日本書紀』の記事を引用する際、
 推古天皇元年とか、推古十年とか書くと、
 推古天皇がいてその十年というふうにとれて
 誤解を生む。

 だから
 私(加治木義博)は
 特に[推古紀]と紀の字で
 記事名であることを明示している。

 <実にオカシナ『日本書紀>抜粋

 紙数の制限があるので、
 これ以上細部に入ることはできないが、
 裴世清が眼で見、手で触れた
 7世紀初頭の「俀」と書かれた国が
 どんな国であったか、
 はっきりおわかりいただけたと思う。

 だがかなりの細部まで謎ではなくなったのに、
 かえって大きな謎がむら雲のように
 湧き起こってきた。

 『隋書』のいう王は男王なのに
 裴世清を迎えた記事まである
 『日本書紀』の天皇は推古女帝になっている。

 このことは大問題である。 

 また、『隋書』でも、
 さきにみた高屋山上陵の主でも、
 倭(うわい)王は阿倍氏であったとするほかなく、
 皇族であり、
 2番目の高位にあった小徳の阿倍鳥は、
 『書紀』では、わざわざ臣の字をつけてあり、
 裴世清は彼が歓迎の最高費任者であり、
 最高位者であると記録しているのに、
 [推古紀]では
 彼は客導者二人のうちの一人として、
 ほとんど目立たない存在に陥されている。

 東北地方の山名もまた
 阿倍一族がつけたものとしか考えられないが、
 阿倍氏と東北のつながりは
 斉明天皇紀四年(658年)と五年、
 阿倍引田臣比羅夫が船師180隻をひきいて、
 飽田(あきた)、津軽、膽振鉏(いぶりすき)などの
 蝦夷(えみし)を討ったとき
 以来のものらしく見える。

 なのに11世紀に登場するときは、
 陸奥(むつ)の俘囚(とりこ)、
 安倍頼時として叛賊とされ、
 源頼義、義家父子らに
   子貞任(とう)ともども討たれ、
 宗任は伊予に流される。

 三年後宗任は太宰府に移されているから、
 山名(さんめい)の森は彼がつけたものでは
 あり得ないが、
 わざわざ伊予に流されたのはなぜであろうか?

 これは、なぜであろうか。

 ひと言でいえば、
 『日本書紀』が頼りない史書だからである。

 一応大きな批判が加えられた戦後でも、
 日本の正史とされて
 崇神天皇あたりから実在、
 応神天皇からは信じられるとして
 「何世紀には……」という引用が
 行なわれているため、
 一般にはそれほど疑問視されていないが、
 実は、かなりおかしな内容が混じっている。

 初期の天皇の年齢(さきの御歳のこと)が
 異常な高齢にみえることは、
 もうご承知のとおりだが、
 それは臣下にも及んでいる。

 武振熊(たけふるくま)という人物は、
 神功皇后(じんぐうこうごう)元年に登場し、
 仁徳六五年にも出てくる。

 この間165年。

 武内宿祢(たけうちすくね)に至っては
 孝元天皇の孫として
 景行一二年より前に生まれ、
 仁徳五十年に天皇と歌合わせをする。

 この間450年。

 中臣烏賊津使主(なかとみいかつおみ)は
 仲哀九年に四大夫の一人で、允恭七年にも出る。

 この間218年。

 倭直吾子籠(あたえあここ)は
 応神四一年から雄略二年まで146年。

 いずれも初出のときすでに成人で、
 後出以後もすぐに死んだわけではない。

 <「俀王(だいおう)」は「大王」だった>抜粋

 間違いがなぜ起こったかを考えてみると、
 原因はただ一つしか考えられない。

 それは裴世清が重ねて書いている
 「俀王」である。

 天皇という呼び名が生まれたのは
 『書紀』が編集されたころであって、
 それより百年以上前の呼び名は
 「大王」であったことは、
 今ではもう常識である。

 「俀王(だいおう)」と、
 この「大王(だいおう)」とは
 全く同じ発音をもっている。

 学界では
 「大王」は「おおぎみ」と
 発音されていたという説もあるが、
 その理由は、
 この『隋書』の
 「親王は阿輩鶏弥と名づく」を「オホキミ」
 と読むのだという考えなどに左右されている。

 しかし
 阿輩鶏弥は「ウワイ・アバイ」
 すなわち倭や後の阿倍と同じものであって、
 「オホ」ではないし、
 またかりにこれが「オホ」であっても、
 別に「大王」を「ダイオウ」と
 発音していたことを否定する材料にはならない。

 裴世清が幾度も耳にした
 「ダイオウ」という言葉は、
 本来「大王」だったのである。

 しかし中国では
 「大」は当時「テイ」と発音していたから
 「ダイ」というのが
 「大」のことだと知らなかった。

 そこで「ダイ」という発音をもった
 「俀」の字を「当て字」したのである。

 <五彩圏は陰陽道の産物ではない>抜粋

 当時の日本政権は、
 唐を宗主国同様に尊敬し、都をそのままにまね、
 国家の大本である法制まで
 唐の律令体制どおりに施行した国だったから、
 当然その陰陽五行も
 重要な政治技術として採用した。

 今でいう省庁の一つにあたる
 陰陽寮(おんみょうりょう)が設置されて、
 国家行事の吉凶を判断し、
 施策を左右する重要な役所の一つになった。

 その長官を「陰陽博士」と呼び、
 安倍氏と賀茂氏とが当てられた。

 そのアベ氏がもと俀王家で、
 それ以前に天文、気象、測量に詳しく、
 それを国家経営の基盤にしていたことは
 『コフン』でもお話ししたとおりである。

 陰陽博士とは、
 今でいえば
 気象庁長官と総務庁長官と
 文化庁長官と厚生大臣とを兼ねたような、
 当時としては非常に重要な地位の
 官僚だったわけである。

 その古い知識に新しい技術を加味して、
 舶来のベールを着せたのが
 「陰陽道」だったのだ。

 だから正確にいえば、
 むしろアベ(安倍、阿部)氏のほうが
 「本家」だったともいえるのだが、

 『五彩圏』は古いほうの、
 あの徐福ら「方士」に伝わった
 シンドゥ教の産物で、
 陰陽道のほうが後の輸入品なのだということを、
 はっきり区別しておいていただきたい。

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908

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