2019年3月17日日曜日

スキュティア人・サカ族

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《スキュティア人・サカ族

※出典:印欧語比較文法・高津春繁著
    印欧語比較文法:印欧語の諸言語・序説
    岩波全書 187 14~15頁

  古代ペルシャ帝国の言語で、
 Darius,Xerxes,Artaxerxes 等の諸王が
 岩石に残した楔形文字碑文(前 520-350 年頃)
 によって伝えられている。

 彼らは自らを Pārsa と称したのであって、
 今日の Persia なる語形は,
 ā を ē に変化せしめることを特徴とした
 ギリシアのイオニア方言を経て
 伝わったものである。  

 碑文中の主なるものは 
 Behistun のダリウス王の大碑文
 (バビロニア及びエラムの言語と共に
  並記されている)及び
 Naxš-i-Rustam のダリウス王の墓碑銘である。

 ダリウス王とクセルクセース王の碑文は
 正確であるが、
 それ以後のものは文法上の誤りが多く、
 既にこの言語が古い時代の姿を変えて、
 中期ペルシア語に遷りつつあったことを
 示している。
 
 他は古代ペルシア語とは異なる方言に属する
 Avesta の言語である。

 この言葉が
 何処で話されていたかは不明であるが、
 これはギリシア人がゾーロアストレース
 (Ζωροάστρης)と呼んだ Zaraθuštra 
 を教祖とする宗教の聖典の言語で、
 その中の最古層たる Gāθā (《歌》)と
 称する部分は略…
 紀元前 1000-600 年の間に歸し得べく、
 残余は略…
 前 500-300 年の間に出来上がったものらしい。

 聖典は一度既に
 ペルシア帝国時代に編纂されたが、
 帝国崩壊の時に失われ、
 その中の Gāθā 及びその外の編纂が
 ササン王朝時代、
 紀元後3~4世紀頃再び行われた。

 この際にはテクストは伝統的発音に従って
 固定されたのであって、
 アラミ語の文字より新たに甚だ複雑な
 アルファベットが作られ、
 全ての母音及び古いアラミ文字では
 表記出来ない子音を区別する記号が
 付加せられたために、
 アヴェスタ聖典の表記法と
 実際の発音との関係は複雑を極め、
 甚だ困難な問題を
 アヴェスタ語研究家に課している。

 現存するものは

 1.Gāθā (Zaraθuštra の韻文の説教)
 2.Yašt(個々の神々への呼びかけ) 
 3.Vidēvdat(掟の書)
 4.Yasna(祈祷書)

 の四部に分れ、原典の四分の一にすぎない。

 以上の外に、
 ヘロトドス等の古代ギリシア史家によって
 伝えられるスキュティア人(Σκύθαι)は、
 クリミア半島およびその北方平原に住み、
 壮麗な墳墓に遺品を留めているが、
 僅かに残っている固有名詞や
 若干の語彙によれば、
 イラン語派に属する言語をもっていたらしい。

 ※ Herodotos Ⅳ 11 によれば
  彼らは元来アジアの住民で、
  後に Massagetai に追われて
  Kimmirioi 人の地
  (ドニエプルとドニエストル河流域)に
  入ったものである。
  彼らは Hippokrates の「風土気候論」91-102
  によれば、
  肥えていて、柔毛で、毛が少なく、
  赤かったという。

  この叙述によって彼らをモンゴル又は
  トルコ・タタルである、或は
  フィンとする説もあるが
  後になって
  イラン民族とする説が有力となった。
  
  之は言語の面からである。

  例えば
  ένάρεες Hdt.Ⅳ.67=άνδρόγυνοι
  Hippokr,de aere 106 άνανδριεες
  <α(ε)-privativum+nra.
  この外固有名詞に 
     Àρσάκης,
   Bαδáκης,
   Ούαπαδάκης,
     Àξιάκης,
     Δαδάκης,
     Σπαδάκης,
     Θαρνάκης,
  の如くにイラン系のものが多い。

  スキュティア語はまた
  Sarmatia 人の言語に酷似し、
  現今のオセット人は
  サルマティア人の後であると言われる。
  cf.K.Kretschmer,PWRE Ⅱ.A.1.923-942.※

  古代ペルシア語が中期ペルシア語に
 移ったのは紀元前400年以後であり、
 之を Pāhalavī と称し、 
 Pāīkūlī の大碑文(後293又は294年) 
 その外の碑文、
 アヴェスタの注釈書等によって知られる。

 この外中期イラン語で文献を残しているのは
 仏教、マニ教、キリスト教の文献の
 東トルケスタン及び
 その東方に発見されたものの中に傳存する
 ソクド語(Sogdian,sogdisch,sogdien)、
 同じく東トルケスタン出土の文献によって
 知られるサカ族(Śaka)の言語である。

 ※ 彼らはパミール地方に住む古い一民族で、
  自ら Śaka と称し、
  ベビストゥーン大碑文上には
  Saka (=バビロニア、エラム語の Gimiri)
  ギリシア語の Σάκας,Σάκης,Σάκκαι
  ラテン語の sac(c)ae は之である。

  彼らの言語は固有名詞によれば
  東イラン語の一派で、
  その中に多くの方言があったらしい。※ 

※スキタイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVQLQvBbFmIAkA.U3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

※サカ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AB
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%82%B5%E3%82%AB%E6%97%8F&aq=-1&ai=DHKsoJIYQfuBItYcLg8PrA&ts=19001&ei=UTF-8

 M.K記(責)
http://blogs.yahoo.co.jp/PROFILE/Y1WGxeo8erJfyFcQEz_j_ksX6vA-

 連絡先:090-2485-7908

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