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《アベについて》
※出典:著者・加治木義博
<「日本大革命」のクライマックス>抜粋
[斉明天皇四年十一月]を見ると
有間皇子が殺されている。
その前後の記事は
阿倍比羅夫の蝦夷討伐記事で埋まっている。
私たちはもう
ウマコは「得目子」という当て字のために、
エミシとも読まれて
分裂したことを突きとめているから、
この「蝦夷」は「有間子」と同一人であり、
彼、有間皇子が「入鹿」そのものなのである。
するとこの本のいちばん最初にお話しした中で、
中大兄が天皇にいった言葉が本当に生きてくる。
彼はこういった。
*「鞍作(くらつくり)めは……天宗を滅ぼし
……このままでは天孫は
鞍作にとって代わることはできません」*
もう一度ご説明すると、鞍作は高麗の造。
天宗は神宗で神道の宗家のこと。
天孫は沖縄出身の天皇たちという意味。
天は沖縄語では「ティヌ」に近い発音で、
神(じん)、秦(しん)、辰(しん)、
新(しん)、清(しん)と共通音で、
沖縄の本名はウティナ=大天国だからである。
だから天宗=神宗=神道で、
みな「チンヅウ」であり、
シンドゥ教を指している。
その沖縄語では
標準語のキを「チ」と発音するから
天は「金」と同じ発音になる。
これも、『ヒミコ』以下で繰り返しお話しした。
沖縄は
「黄金の国=スバルナ・ブーミー」
だったのである。
当時の五彩圏連邦がどんな状態にあったか、
ここでもう一度想いだしてみていただきたい。
前の連邦皇帝は
[高句麗本紀]が建武王と書いていた
舒明(じょめい)天皇だった。
それを高句麗王の泉蓋蘇文が殺して、
あとに皇帝の弟の子・宝臧王を立てたのだった。
いま朝倉の宮で死んだ
斉明天皇の名乗りをみると、
「天豊財重日足姫
(ちぬほたからかしひたりひめ)」である。
その当時は
天は沖縄から南西諸島一帯の南国を指し、
豊は大分県から大阪府豊島郡までの東国、
財は<タカラ>と読んで
呉から高句麗までの北国、
重日は<カサヌヒ>と読ん
で鹿児島の小国・日本から白日別までの西国、
また<カシヒ>と読んで
その都(=中央)の名にもなったとみると、
香椎=福岡市、足姫はタリ=大王、
姫は女性だから二字合わせて
「女王」ということになる。
これは高句麗から見れば
財(たから)は高句麗ということで、
高麗王=タカラ王、
すなわち宝臧王ということになる。
少しつけ加えれば、
この王名は文字が間違っている。
正確には
高句麗(たかくら)王ということなのだから
「タカクラ王」と発音されていたもので、
それに対する当て字なら宝臧王ではなくて
「宝蔵王=タカラクラ=タカクラ」
でなければならない。
この名乗りでよくおわかりになったように、
斉明天皇は小さな白日別の王だったのではなく、
五彩圏連邦・全体の女帝だったのである。
それを
小国・日本王の天命開別、
新羅の当て字では金春秋、
連邦政府の記録では阿倍比羅夫が攻めて、
ウマコも一緒に討ちとったのである。
だからこの部分が、
「日本大革命」のクライマックスだったのだ。
<敗れたのは百済倭国=藤原>抜粋
そのうち大発展を遂げたのは大阪百済である。
それは倭王・済の時以後で、
応神・仁徳天皇陵などの巨大古墳が、
須恵器(すえき)工業などの
経済基盤によって築かれたことなど、
『コフン』で精密にお話ししたとおりである。
それが朝鮮半島を攻めて
「海北95カ国」のうち
馬韓を朝鮮百済にしたのは
倭王・武より前だった。
その武こそ武寧王その人である。
その朝鮮百済は
斯麻王のような小王が治めていて、
本国はいうまでもなく大阪にあった。
それが「大化改新(乙巳の変)」の舞台になった
孝徳天皇の長柄豊碕朝で、
当時の五彩圏連邦の中心だったのである。
なぜならその政権が崩壊すると
五彩圏連邦が消滅したし、
勝った天智天皇は
日本を統一したことになったからである。
それを『唐書』は、
「大国・倭国」と書いてある。
今からみて正確にいえば、
それは「百済倭国」時代なのである。
そして当時の人々もそれを認めていた。
なぜなら「百済倭国」は当時の唐音による
鹿児島発音で「百ホ 済ゼ 倭ワ 国ラ」、
沖縄発音で「フジワラ」になる。
これで藤原氏が何であったか、
よくおわかりになったはずである。
藤原鎌足の
茨木市・阿武山(あぶやま)陵は
その豊日の国の東北にあり、
平安京の帝都鎮護・比叡山が
都の東北にあるのと同じ位置にある。
彼は神武天皇の協力者
「饒速日(にぎはやひ)」だから、
天智天皇の「中臣鎌子」なのである。
<藤原鎌足は五彩圏連邦の皇帝だった>抜粋
「藤原鎌足の阿武山陵」
昭和9年4月、
大阪府高槻市の阿武山(281m)にある
京都帝国大学阿武山地震観測所の裏に、
新たに地震計を設置するための工事中、
偶然、古墳が発掘された。
関戸信吉・関西大学教授が当時撮影した
Ⅹ線写真の原版によって、
1987年11月に
京大の小野山節教授らの研究会が
その研究成果を発表、
本章の扉の玉枕や金糸の入った
織物の冠などから、
大織冠を死の直前に下賜された
藤原錬足の墓と確認する幾多の事実が発表され、
世紀の大発見として連日報道面を賑わした。
これは西側から見た阿武山の全景。
<「青雲の」は敵国名で枕言葉ではない>抜粋
「文部省が認めた天満宮と神武東征の関連」
昭和15年、紀元2600年祭奉祝会は
文部省の調査考証にもとづいて、
大阪天満天神宮を〔神武天皇聖跡難波碕〕
であるとし、この記念碑を境内に建てた。
それはここが元、大将軍社と呼ばれたこと、
孝徳天皇の皇居の鎮守だという伝えがあること、
天満とは神武天皇の言葉として
『記・紀』にある「虚空見つ大和の国」の、
「ソラ(天)ミツ(満)」
であるといったことが、
考証の基礎になっている。
しかし私たちは、その大将軍に当たる人物は、
阿部比羅夫以外になく、彼こそ
天智天皇であり、
神武天皇その人であることを知っている。
<真相を隠すための「当て字のマジック」>抜粋
歴史記録専用に
「真相を隠すために創作された」地名が、
いちばん多く見られるのは、
例の阿倍比羅夫の蝦夷討伐記事だ。
それはいかにも
東北地方や北海道での事件だと
思わせるような地名に仕立てられてはいるが、
常識で考えても、
日本の本当の建国前夜、
これまで
神武天皇の東征だと信じられていた時代に、
北海道まで、はるばると遠征する必要もないし、
それよりずっと手前の
中部地方や関東地方でさえ、
平安時代まで手つかずのところが
あったのである。
それらは「当て字のマジック」だった。
その種あかしをすると、
大阪の「白村江」のあとの
様子が浮かび上がってくる。
[斉明五年三月]比羅夫は
船180をひきいて蝦夷を討つ。
そして勝利の後、
蝦夷の頭(かしら)のすすめをいれて
「後方羊蹄(こうほうようてい)」を
政所(まんどころ)とし郡領を置いて転戦した。
これを従来は後方羊蹄(しりべし)と読んで、
羊蹄山(ようていざん)のある
北海道のことだとしてきたのである。
しかし
北海道の山に羊蹄山という名をつけたのは
松前になってからである。
比羅夫の記事が大阪の戦況であることは、
もうよくおわかりのことである。
だからこ
の「後方羊蹄」も大阪の地名への当て字である。
「後方」は「シリカタ」で「白肩」。
「羊蹄」は
淀川の
「淀=寄泥=ヨデイ=ヨドロ=ヨド」に
対する別の当て字である。
結局、なんのことはない。
白肩の津=枚方の入江に船を泊めて
そこから上陸して転戦した、
というだけのことである。
<「大化改新:乙巳の変」関連年表>抜粋
654 孝徳天皇死ぬ。
655 斉明天皇、再び天皇になる。
658 阿倍比羅夫、蝦夷を討つ。
有間皇子殺される。
659 阿倍比羅夫、蝦夷を討つ。
660 阿倍比羅夫、粛真を討つ。
唐と新羅の連合軍、百済を攻める。
661 斉明天皇、朝倉宮に移り、死ぬ。
662 天智天皇即位。
663 白村江の敗戦で百済滅ぶ。
664 冠位二六階などを定める。
筑紫に水城を造る。
665 長門、筑紫に水城を造る。
667 近江・大津宮に遷都する。
高安城、屋島城、金田城を造る。
670 長門、筑紫に城を造る。
倭国、国号を「日本国」に変える。
671 近江宮焼ける。天智天皇死ぬ。
672 弘文天皇即位。
壬申の乱。
弘文天皇殺され、天武天皇即位。
764 淡海三船、天皇の漢風諡号を作る。
◎YAMATO
<「白村江」と「後方羊蹄」は枚方>抜粋
その大阪大戦は、
過去には「白村江の戦い」として
朝鮮半島での事件だと錯覚されていた。
(『日本書紀』編集者が、
大阪大戦を太古の「神武紀」へ移した以上、
大阪の百済本国の事件だとは書けないので、
半島の「小百済」での事件に
スリ替えたからである。)
それがなぜ、
[神武天皇紀」にある
「白肩津の戦い」と同じものかというのは、
次のように、
白 村 江
白 肩 津
と並べてみると、
江と津は書き変えているだけで
どちらも入江のことである。
すると違いは村と肩だけである。
この白(シラ)は
新羅軍が占領したのだから「新羅」のこと。
するとその入江が
戦後「新羅潟(かた)」と呼ばれたから、
「白肩の津」という当て字が残ったのであり、
村名としては「白村」と呼ばれていたから、
「白村の江」という呼名があっても当然である。
一方、
朝鮮半島にはこんなにはっきりした地名は
どこにも見当たらない。
この地名が
大阪府の枚方のものだという点については、
もう一つ別の有力な記録がある。
それはその大戦と全く同時に、
阿倍比羅夫が蝦夷征伐にでかけて、
それを討ち破ったあと、
政所(まんどころ)(=行政府)をおいた
土地の名として出ている「後方羊蹄」である。
これは学校では長いあいだ
「シリベシ」と読むと敢えてきた。
それは今、
北海道に九郡をもつ後志(しりべし)支庁があり、
羊蹄山という山もあるからで、
蝦夷征伐というのは
北海道のアイヌ人との戦争だと、
思いこんでいたことがわかる。
だが北海道のごく一部分が
日本領になったのは江戸時代で、
羊蹄山の名も逆に
この『日本書紀』の記事によって、
近世になってから名付けたのだから
何の証拠にもならない。
さて阿倍比羅夫の蝦夷征伐だが、
いかに野蛮な昔でも、
祖国が今にも滅亡するかという大戦の最中に、
攻めても何の利益もない遥かな北海道まで、
わざわざ大軍で遠征するような
非常識なことをするわけがない。
この真相は、
大阪大戦の双方の当事者の名乗りが
ピッタリ同じであることによって、
「阿部」は天智天皇の名乗り
「天命」の「天=アメ」の訛った「アベ」で、
「比羅夫(オ)=日羅王(オ)=新羅王」で
どちらも天智天皇のこと、
蝦夷とは蘇我蝦夷のことだとすぐわかる。
では「後方羊蹄」とはなにか。
「後方」は「シリ方(カタ)」で
鹿児島語の「白い=シリ・シレ」で
「 シリ方=白肩」への当て字。
「羊蹄」とは淀川の「ヨド」への当て字なのだ。
ヨドと羊蹄では
コジつけがひどいと思われるかも知れないが、
淀の語源は
「泥の寄る場所=寄泥=ヨデイ」だから、
「羊蹄」はその「ヨデイ」への当て字である。
また羊の蹄は逆馬蹄型をしている。
淀川も明治の末に新淀川をつくって
真直ぐにするまでは、
まさに羊蹄型に大きく湾曲していて、
そのために豪雨のたびに大洪水に襲われていた。
その改修前の羊蹄型に
大きく湾曲した地形図も記録に残っている。
だからその曲り具合から
「羊蹄川」と名付けられたことがわかる。
<さらに小墾田の宮に移る>抜粋
[推古紀]には、
その2年後にまた
小墾田の宮に移ったと書いてある。
これは皇極天皇が
小墾田の宮に移ったと書いてあるのと
全く同一のことで、
これも推古・皇極の二女帝が
同一人であつたことの証拠の一つである。
そこでも次に挙げた
「二〇年に呉(くれ)橋を造った」と書いてある。
「南庭」がやはり登場するから、
あとの[皇極紀]と比較してみていただきたい。
こうした混乱はまだまだひどく、
その年月などは全然信頼できない。
なぜなら次のように、同じ[推古紀]の中に、
70年も昔の俀(だい)国時代の記録まで
混じりこんでいるからである。
わかりやすい例をあげておこう。
(○=本当の記録。×=他の記録の挿入}
9年 斑鳩の宮 〇 670年ごろの大戦直後の記録
11年 小堅田 ○ 670年ごろの大戦直後の記録
16年 裴世清くる × 600年ごろの俀(だい)国時代の
記事の挿入
20年2月 阿部臣・鳥 × 600年ごろの俀国時代の
記事の挿入
20年 南庭に呉橋を 〇 670年ごろの大戦直後の記録
26年 隋、高句麗を攻める × 611年の事件。
<倭国政権の栄光と「蝦夷」の悲惨な末路>抜粋
658年 阿倍・比羅・
夫(天命(アベ)・開(ヒラ)・別(ブ)=
(天智天皇)が
~この頃 粛真(チクシン)(筑紫)と
蝦夷を討つ。
道奥の国を新たに設置する。
(『日本書紀』では大化元年になっている。)
越の国に渟(ヌ)足(ソク)柵と
磐舟柵(いわふね)を作る。
677年 天武天皇、
畿内と陸奥と長門の国司だけは
「大山位(ウヤマイ)」以上の高官を
任命する。
689年 持統天皇、
陸奥と越の蝦夷を沙門(僧)に
ならせ仏像などを与える。
696年 持統天皇、
越の渡島の蝦夷イナリ・タケシと
粛真(筑紫)のシラ守アキクサに
下賜品を与える。[『日本書紀』]
以後、物を与えて懐柔に努めるが、
反乱と服属を繰り返す。
<日本建国史年表>抜粋
581年 隋、建国。
このころ日本列島は俀国時代。
592年 『日本書紀』の推古天皇即位。
608年 (『日本書紀』の推古一六年)
隋・大業三年、
隋の文林郎・裴清、俀国へくる。
連邦皇帝=阿毎多利息北孤。
622年 『日本書紀』の聖徳太子、
斑鳩に遷都。
628年 隋ほろび、唐建国。
640年 舒明天皇、百済宮に遷都。
大阪・百済倭国時代に入る。
645年 『日本書紀』の大化改新。
孝徳天皇、長柄豊碕宮に遷都。
659年 阿倍比羅夫、蝦夷を討ち、
後方羊蹄に政所をおく。
660年 阿倍比羅夫、粛真を討つ。
唐と新羅の連合軍、百済を攻める。
661年 辛酉の年。
『三国史記』新羅太宗王・
金春秋死に、文武王・法敏即位。
天智天皇(神武=金春秋)即位年。
本当の統一日本建国記念日。
663年 大阪・枚方大戦。
五彩圏連邦と
朝鮮半島の百済ほろぶ。
倭・日本(オカモト)の宮=
斉明+天智(称制)の
連立政権時代始まる。
670年 天智天皇の称制時代終わり、
国号を倭国から「日本国」に
変える。
672年 壬申の乱。
大海人皇子、弘文天皇を倒し、
飛鳥浄御原宮に移る。
673年 天武天皇即位。
681年 『浄御原令』=律令制定。
691年 持統天皇、
18氏に『纂記』を提出させる。
◎日本国誕生の秘密
<赫夜姫(かぐやひめ)の成人と求婚者たち>抜粋
そしてそれぞれの相手に、
先に比較したあの難題の品物を、
プレゼントしてくれるようにと
いいつけたのである。
石作(いしきつくり)の皇子(みこ)には、
「仏様の石の鉢」。
車持(くるまむち)の皇子には、
蓬莱山に生えているという「珠玉の樹の枝」。
右大臣・阿部御連(あべのみむらじ)には、
絶対に火に焼けない中国産の「火鼠の皮衣」。
大納言
大伴御行(だいなごんおおとものみつら)には、
竜の首に光る「五色の玉」。
中納言石上麿足
(ちゅうなごんいそのかみのまろたり)には、
燕が子育てのお守りにしているという
「燕の子安貝(=タカラガイ)」である。
もともと、
この世に実在しないものばかりなのだから、
手に入るはずはないが、
恋に日のくらんだ5人は、
大金を使い、大勢の人を使い、
自分でも必死になって奔走して、
それを求めては失敗する。
その、地位の高い人間の、無知と、愚かさと、
一喜一憂と、失敗とが、
読者の笑いを誘うのだが、
結局は予想通りみな失敗に終わって
読者をさらに喜ばす。
すると、
その噂を聞いた、ときの帝が迎えをよこす。
しかし姫は勅使がきても会わない。
そこで帝は代わりに翁を宮中に呼んで
宮仕えを命令しようとしたのだが、
姫はそれも断わってしまう。
しびれを切らした帝は、
そこで鷹狩りを口実にして出かけ、
彼女の家へ直接、立寄って
無理やりにでも宮中へ連れて帰ろうと計画する。
ところが……そうは行かなかった。
赫夜姫は
自分の意思で求婚を断わっていたのではなくて
自分はこの地上には永くいられないことを
知っていたからなのである。
◎大学講義録01
<ウワイをめぐる言語学的背景)>抜粋
それには、
東南アジア語の知識も重要な役割りを
果たしているのである。
それを簡単にお話しすると、
インドの「ウパイ」は、
鼻濁音をもった言語地域で「ウバイ」に
変わらないと、
その次の「ウワイ」に変わらないという
「動かすことのできない法則」があることを、
記憶しておいて戴きたい。
ウバイという濁音を特徴にする言語は
今の「べトナム語」に代表される
アンナメーズ語族である。
それがさらに極端な鼻をつまんだ唇音の
「ウワイ」に変わるのは、
マレー半島から台湾に及ぶ
マレー語族の特徴である。
ミヤンマーの「ワ人」は、
ヴワー(Bur)人とも呼ばれ、
それがヴワーマ=ビルマ(Burma)
という国名にもなっている。
ミャンマーは
このビルマが
「<ビ=ミ>・<ルマ=ヤンマー>」
と変化したもので、
「L音」が「Y音」に変わるのは
Marseilleをマルセイユと発音する
フランス語などと同じ訛りである。
「ワとバ」の訛りと関係のある方言差は
台湾の高山族・アミ人が、
沖縄ではアビと発音されことにも見られる。
「美の字の発音変化=<ミ>と<ビ>」
の関係である。
このアビも奈良朝には「阿部」になるが、
その前の四国宇和島では清音で
「阿輩」と書かれている。
これは「ウハイ」に対する
隋式の当て字なのである。
M.K記(責)
連絡先:090-2485-7908
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