2019年3月24日日曜日

神武天皇〔第1代〕と崇神天皇〔第10代〕

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神武天皇〔第1代〕と崇神天皇〔第10代〕

歴史学講座「創世」
歴史研究家 
小嶋秋彦 


※『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代
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 「神武天皇〔第1代〕と崇神天皇〔第10代〕
"はつくにしらしし・すめらみこと"


 
 《魏書東夷倭傳》

  いわゆる倭人伝の記述の様子によると、
 「倭王」が再び使節を送ったとの記述のある
 魏暦正始4年(243)から
 次の記述の正始8年(247)の4年のうちに
 卑弥呼は死亡したことになる。

 卑弥呼の死後男王を立てたが
 国中が服従しなかったので、
 また卑弥呼の一族の壹與(台与)という
 13歳の女子を王に立てたという。

 文章の流れからすると、
 その壹與(台与)が魏に使節を送ったのが
 正始8年(247)ということらしい。

 よってより正確な推測をすると、
 卑弥呼の死亡は
 紀元245年の前後合わせて3年の間だろう。

 「台与」はサンスクリット語の 
 duyo 〔第二の〕音写で、
 彼女を「第二代」の巫女として、
 連合国家が再構築されたものとみられる。

 しかし、この連合も3世紀の後半
 〔多分紀元270年頃〕から
 4世紀初めにかけての間に海外から
 武力侵攻して来た勢力によって壊滅させられ、
 邪馬臺国(邪馬台国)はじめ
 傍国諸国の独立も存続が
 あやうくなったものとみられる。

 吉野ヶ里遺跡の発掘・再現によって
 明らかになっている長大な「柵」は、
 その外圧から村落を守護するための
 大掛かりな構造物で、
 実際その外圧勢力と戦争を行ったのである。

 遺跡内に埋葬された長躯の遺体は
 その敵の犠牲となった者の死体である。

 その海外から侵攻し来た勢力とは
 「崇神天皇」及びその和名「御真来入日子印恵」、
 垂仁天皇の「伊久米伊理毘古伊佐知」に
 込められている
 「イリ:入・伊理」人の勢力である。

 「イリ」は Ellas 〔ギリシャ〕あるいは
   Ellan 〔ギリシャ人〕の音写で、
 この勢力の祖地が古代にエーゲ海を挟んだ
 東西の地方ギリシャにあったことを示している。

 軍船で侵攻して来た西方軍事力
 ―崇神天皇と「イリ:人」の勢力―

 <日本古典文学大系>

 〇『古事記』崇神天皇 御眞木入日子印恵命
   初国知らしし御眞木天皇
  「はつくにしらしみまきのすめらみこと」

 〇『日本書紀』神武天皇 神日本磐余彦天皇
   始馭天下之天皇
  「はつくにしらすすめらみこと」

 〇『日本書紀』崇神天皇 
   御間城入彦五十瓊殖天皇 
   御肇國天皇
  「はつくにしらすすめらみこと」

 〇『常陸國風土記』香島郡
  ・難波長柄豊前大麻馭宇天皇 〔孝徳天皇〕
  「あめのしたしろしめしすめらみこと」
  ・初國所知美麻貴天皇 〔崇神天皇〕
  「はつくにしらししみまきのすめらみこと」

  
 (1)「初國」「始馭」「肇國」の表記から
   「初(始)めて國を治めた」との解釈ができる。

  <大漢和辞典>
 
   知(チ)つかさどる、治める、とりしまる

   馭(ギョ・ゴ)すべる、をさめる、とりしまる
         つかふ、馬を操る、乗り物
         ◎指導する

   肇(テウ・ヂウ)うつ、はじめる・はじめ
          はかる、ひらく、ただす

  "しらしし"は「知る」に従った読み方である。

  ★ただし「しら」の語源を下記の用語
   (ギリシャ語)と考えると
  「神武東征」の実相がより明確に理解できる。
  「しら」
    (Grk.)συλαω〔sylao〕
         ・イオニア訛り、叙事詩
    (Grk.)συλασκε〔sylaske:しらしき〕
      奪う、掠奪する、
      (特に)倒した敵の武具を剥ぎ取る
    (Grk.)συλαω〔syesis〕掠奪 
    (Grk.)συλαω〔syltor〕掠奪者

  ・「神武東征」によって神武東征勢力は
   登美能那賀須泥毘古(長髄彦)
  ・兄磯城・弟磯城から
   国を奪った。
   これは明らかに
   「掠奪者」「侵略者」を示している。

 (2)神武東征は崇神東征

 『記・紀』双方に
 「はつくにしらす(しし)・すめらみこと」を表す
 天皇名として
 神武天皇・崇神天皇が記載されている。

 双方のうちどちらが
 実際「はじめて」なのだろうか。
 
 実際は崇神天皇が「東征」したとする方が
 妥当である。

 その理由は『記・紀』が記述する
 「岡田宮」「他祇理宮」「高嶋宮」の背景から
 明確であり、
 その『記・紀』の編者たちは「侵略・掠奪」の
 悪名を除けるためか、または
 自分たちの勢力がより古くから
 当地(大和・奈良県)に
 渡来していたことを示すために
 「神武東征」との構成を創り上げたのである。

 ※ところが、
  それとは違う重大な事情があることが
  判明した。
  それを物語っていたのが”八咫烏”伝承である。

 (3)「崇神東征」勢力と「神武天皇」勢力の関係
 
 a.多氏(神武天皇)

  「崇神東征」の頃(295~315年)には
  すでに大和盆地におり、
  登美族〔登美能那賀須泥毘古〕や
  磯城族〔兄磯城・弟磯城〕、また
  饒速日命族〔物部氏〕と共に
  盆地の南(明日香村、五条市)から北(奈良市)に
  別れて統治制〔部族制〕に入っていた。
 
  そのうちの多氏系列の人々が、
  崇神東征軍の正面に当たってきたので、
  彼らに同道するとの計略で、
  その進行路を東方へ採らされたのである。

  東征軍が
  大和盆地へ進攻する正面になったのは、
  この度は「登美族」となった。

  その結果、
  登美能那賀須泥毘古一族と
  彼に味方した兄磯城は
  滅亡の憂き目に会ってしまった。
  榛原町地図にみると桜井市との境界に
  鳥見(「とび」という)山(940m)がある。

  「鳥見」は「トミ」で「延喜式」神名帳に載る
  「築弥神社」名と同根で、
  鳥見山に代表されるように
  登美族の領域であった。 
  よって
  同領域を守るため登美族は反抗せざるを
      得なかった。

  しかも背後には
  崇神東征軍に味方した味方した多氏があった。

  多氏は崇神東征軍と同盟したのである。

  その経緯を伝えるのが
  「ヤタガラス」伝承である。

 b.『記・紀』における多氏に対する対応

  その「東征」成功の結果、
  「崇神」勢力は多氏の同盟対応に感謝し、
  同氏がすでに以前より大和盆地に定着していた
  ことを考慮し、崇神天皇(第10代)より古い
  朝廷権力〔天皇:てんのう〕として
  第1代神武天皇から第8代〔孝元天皇〕までを
  多氏の履歴を基に設け、神武朝と崇神朝との
  継ぎとして第9代開化天皇を挿入したのである。

  実際『古事記』の編纂を命じた天武天皇は
  息長氏〔ギリシャ〕系であるし、
  命を受けて実務を担った太安万侶、稗田阿礼も
  ギリシャ系〔天津彦根〕の後裔であった。

 c.「てんのう(天皇)」の始まり

  「天皇」の発音は「テンコウ」であり、
  これは遣隋使以降、シナの漢字資料が
  移入されてからの使用である。

  本来「てーのう」がその始まりで、
  ギリシャ語に依拠している。
 
  その原初は登美族と同族のアズミ(阿曇)族の
  「天孫」伝承「降臨」と係わっている。

  ○天皇「てーのう」
  (Grk.)Θεο-νοευ
    〔theo-noeu:神、目に留める〕
    神が顕れる

 「天孫降臨」

  ※「天孫」とは天照大神の孫
    〔邇邇芸命〕が地に降った「天孫降臨」

  ※現人神、顕人神
  ※「テンノウ」との発音も漢発音の影響

  ○天皇「てん・のう」
   (Grk.)Theo_n.oeu<テンオウ>



 M.K記(責)  
 連絡先:090-2485-7908

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