2019年3月17日日曜日

フェニキヤと船木

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フェニキヤと船木

加治木義博

 ※出典:加治木義博・篤姫を生んだ鹿児島こそ
     スメル八千年帝国の理想郷だった
    :162~163頁

  "超国際人だった古代屋久島"

 役人というのは、政府の役人のことで、
 たかが神社の
 お賓銭集めなどの名だとは思えない、
 コジつけだとお思いの方があるかもしれない。

 だが八幡様は今、言ったように
 応神天皇の「宮城」であり、
 「政府」だったのである。

 そこに働く職員が、
 役人の始まりだったのは、
 当然のことなのである。

 だから4世紀の応神天皇時代に、
 役人という代名詞が
 存在していたということの方が驚きである。

 大隅は、
 日本の「最涯ではなく」
 「中央で皇居のある首都」だった。

 それは頼朝の時代には、
 現代よりさらに強く意識し
 崇敬されていた地域だった。

 だからこそ頼朝は、
 愛する忠久にその土地を委ねたのである。

 これが理解できれば、
 八幡領の広大さは不思議ではなく、
 また武力で我が国の支配権を手にした頼朝が、
 天皇の落胤で自分の子である忠久を、
 当時の我が国南端の最涯の地に、
 なぜ送り込んだのか、
 その理由が明瞭にわかる。

 それでこそ嶋津氏とは何だったか?

 嶋津之庄とは何だったか?

 が、本当に理解できたのである。

 縄文時代に
 スサの王が移植した屋久杉について、
 念のためにつけ加えると、
 邪馬国は上屋久町で屋久島北部。

 狗奴国=久の国は南部の屋久町で、

 屋久杉は超古代のスサ
 (今はイランの都市)の王スサノオが、
 はるばる船で運んで来て植えた
 レバノン杉である。

 『日本書紀』には、
 八岐大蛇退治の後の「一書」に

 「浮き宝がないのはいけない」

 と言って、
 杉と楠とを植えた、と書いてある。

 その移植の時代は、
 古代シリヤにあった
 フェニキヤ=船木国(きや)が大船を使って、
 造船用のレバノン杉を
 世界に運んで売り歩くのを主体に、
 貿易で栄えていた時代である。

 だからスサノオノミコトという神名は、
 「スサの王」という名乗りで、
 決して個人名ではなく肩書きである。

 その証拠にはるか後世の『新漢書』にも

 「帥升・スイサヌウ」

 と名乗る倭の国王が、
 漢の都に来たと記録されている。


 ※出典:加治木義博・大学院講義録35:16頁

 ”スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証”

 フェニキヤ人は、
 そのずば抜けた思考力と先進文化によって
 船を造り、
 その新しい移動手段を活用して、
 さらに新しい交易を考案実行し、

 富を築き国土を拡大して栄えた。

 その基礎になったのは、
 船材や香料や建築材としての植物の性質を
 研究して、
 加工し増殖する学術を発展させたことで、
 それが彼等の文化の著しい特徴である。

 『日本書紀』にはスサノオの尊が、
 子孫は
 「浮き宝=船」を
 もたなくてはいけないといって、
 髭や眉毛や体毛を抜いて蒔くと、
 それが種子になって杉や檜や楠などが
 生えたという話や、

 尊の皇子・五十猛の神と共に、
 樹木の種子を大八州に
 植えてまわったという話が載っている。

 『旧約聖書』のエゼキエル書に

 「カナン人は
  レバノン杉で汝の船の帆柱を造り、
  セニルの樅で汝の船板を造り、
  バシヤンの樫の木で汝の楫を造り、
  キティムの檜に象牙を嵌めて
  汝の甲板を造った」

 と書いてあり、

 フェニキヤ人以後、
 こうした木材を輸出して稼ぎまくったために、

 今では
 レバノン杉は絶滅して見ることが出来ないが、
 フェニキヤ人はまさに文字通りの
 「船木屋」だったことを証言している。

 スサは、
 そのイラン植民地の大都市であり、
 そのスサの王の名乗りをもつ
 スサノオのこの物語は、
 当時世界唯一のフェニキヤ文明が
 我が国に入って造船や植林産業を起こし、
 そのための必須教養として植物学知識が、
 説話様式による
 古代教育に新たに加えられた
 史実の『証拠』なのである。


 ※出典:加治木義博・大学院講義録35:27頁

 ”沖縄から本土に入ったフェニキヤ人”

 もうこれで、
 フェニキヤは「船木屋」だと申し上げても、
 コジつけとも、
 論理の飛躍だともお思いにはならないと思う。

 それはまさしく日本語になっているのである。

 考えればそれは
 三千年以上前に日本語化したのだから、
 当然のことなのだが、
 それが今の標準語と少し、
 ずれがあるために疑われるのである。

 このことは
 逆に日本語の歴史を考える上では
 貴重な文化財だということになる。

 それを追及してみよう。

 フネの部分はフェニだから、
 エ音が消えている。

 このことは我が国の言語分布からみて、
 e音の無い沖縄語のためだと解る。

 それにはもう一つ根拠がある。

 エ音が取れるとフニになるが、
 沖縄では現在も船をフニと発音している。

 さらにもう一つ
 沖縄へ先に入ったという理由がある。

 それは船乗りのことを
 古い沖縄語では
 「フ ニ チュ」という。

 これは原語を並べてみると、
 明瞭に語源が浮かび上がる。

 「フェニ キヤ」 

 沖縄語のチは標準語のキであり、
 yuはyaと書くと一層よく
 相互関係が理解できる。

 フェニキヤの名が、
 三千数百年という歳月を経ても、
 一字一音も欠けることなく、
 こんなに見事に保存されていたのである。

 これもフェニキヤ人が間違いなく沖縄に入り、
 以後に本土に入ったという
 貴重な証拠の文化財なのである。


 ※出典:加治木義博・大学院講義録35:28頁

 ”フェニキヤ人来住は史実だという証拠群”

 この「フェニ キ」が、
 もう一方では「船木=フナキ」
 という姓などの名詞になっている。

 これはキ音があるので
 沖縄以外の土地のものである。

 南九州には

 「無い」を「ネ」と言う土地と、
 「ナカ」と言う土地とがあった。

 今では様々な言葉が混用されていて、
 どこのものか断定できないが、
 山根と山名という姓があり、

 鹿児島県に阿久根、大根占があり、
 熊本県に玉名市があるから、

 フナは熊本語とみても大きな間違いはない。

 それはさらに次の事実を証言している。

 それは名詞語尾の
 「キ」はイサナキのキと同じで
 王称だということである。

 フナキは船王(キ)であって、
 海人王を意味していたのである。

 『住吉大社神代記』には

 船木 連(むらじ) 
 宇麻呂は神功皇后に舟を造って奉ったので、
 船木姓を賜わったとある。

 その所領の船木村は
 播磨の国、明石郡にあり、

 遠祖は大田田根子の児、
 神田田命とあるので、

 彼はインド経由で来た
 一族だったことが解る。
 カンダタという名は、

 有名な仏教説話
 『蜘蛛の糸』の主人公の名である。

 だから
 スサノオは
 フェニキヤのスリランカ拠点から、

 カンダタという名の
 インド人を乗せてわが国へ発たのである。

 神田田命は所領・
 九万八千町余の大富豪だったともあるから、
 フェニキヤ流の経済学は、
 ずっと後世まで健在であり、

 また履中天皇の妃・太姫郎姫(いらつめ)と
 高鶴郎姫との父が
 フナキワケ王と読める名をもっている。

 これらもフェニキヤ人の来住が
 史実だったことの不動の証拠なのだ。

 ※出典:加治木義博・大学院講義録34:06頁

 ”建国史の真相:大和朝廷の発展と遷都”

 天草と淡路島の地名が教える
 大和朝廷の発展と遷都
 移動跡の地名が教える、
 その名の由来

 応神天皇の最大のナゾ『名替え』の真相
 滅びなかった天皇家。

 8000年続いた『万世一系』

 天皇とは
 天竺(インド)⇒倭天(ウチナー=沖縄)皇帝の意味

 『神』カミ=お上=大神。

 シン=シンドゥ=インド
 シンドゥの語源は
 スメルの月の女神「シン=海の支配者」

 海=アマ=天=海国沖縄=大天(ウチナー)⇒天神

 天照大神は斉明天皇までの
 女帝制大国・倭国の歴代女帝

 男帝制化は
 小国日本(クマソ)皇子・天智天皇の
 大化(乙巳の変)改新

 復旧したのは
 大天=大海人(ウバイト)皇子=天武天皇

 淡路島に現存する
 女性上位の皇居跡神社と天の御柱
 御柱は船。

 海人の遠い故郷はフェニキヤ(船木屋)

 「戦争か、平和か」

 だった岐・美2神の争い

 歴山大王家のギリシャ最大の悲劇も
 岐・美2神の争い

 「天皇名の末尾=首都名」
 が示す大和朝廷の証拠郡

 淡路島と周辺に大量にある
 「国生み」の証拠郡

 八紘一宇=グローバル化の大理想に、
 いま開眼した人類


 ※出典:加治木義博・大学院講義録16:12頁

 ”カドモスの国・フェニキヤは「船木国」”

 カドモスが生まれた国の名・
 フェニキヤも重要な名詞である。

 そこは古代ギリシャ中でも
 最も有力な海軍国で、
 スペインなど各地に植民地を造り続けた。

 その国名に当て字すれば、船木国になる。

 船の木は松。
 カドモスと門松はここでも結びつくのである。

 ただし
 フェニがフネというのは
 オカシいという疑問が残る。

 これは沖縄語を考えればきれいに晴れる。

 沖縄で最も有名な戦跡
 「マブニの丘」は、摩文仁と書くが、
 そこは沖縄本島最南端に近く、
 一望、果てしない太平洋を見渡す丘だから、
 「船しか見えない丘」で、
 それを叙情的に表現した「真船の丘」が、
 命名者の意図した本来の名前なのである。

 真船がマプニになるのは
 本来の沖縄語には母音のエがないから
 フネがフニになる。

 だから
 フェニもフニで船と同じになるから
 船木国で完全に表現されているのである。

 いまギリシャや、
 その植民地遭跡一帯へ行ってみると、
 見事な松原や松並木が残っている。

 紛れもなく文字通り
 「船木の国」だったことが実感できる。

 日本語の「フネ」の語源が
 フェニキャだったことは疑問の余地がない。

 従来、
 古墳人は北方騎馬民族だといわれてきた。

 古墳に壁画や埴輪の馬があり、
 石の馬も九州と出雲で出土したから、
 有力な証拠とされていた。

 しかし彼らは船や松には縁がない。

 それは全て
 海神・ポセイドンとだけ、
 矛盾なく結びつく、
 動かぬ証拠群だったのである。


 ※出典:加治木義博・大学講義録28:09頁

 "サカとサタの語源"

 「語源は」

 塞(サカ)の神=猿田彦=岐(フナト)の神

 塞(サヘ)の神=佐太 船渡(フナト)・船人(フナト)

 塞(サイ)の神=佐太船渡(フナワタ)・船人(フナト)

 サカ     サタ  ワタツミ

 釋迦族    = スキュタイ人

 船岐・船木=フェニキヤ人

 塞国=サカナ=魚=海神

 魚(イオ)国=倭国(ウオマ)=イオニヤ人

 倭・塞=オオサカ

 ポセイドンの国大阪

 百済・和泉 国

 塞(サカ)の神=猿田彦=岐(フナト)の神

 塞(サヘ)の神=佐太 船渡(フナト)・船人(フナト)

 塞(サイ)の神=佐太船渡(フナワタ)・船人(フナト)

 サカ     サタ  ワタツミ

 釋迦族    = スキュタイ人

 船岐・船木=フェニキヤ人

 塞国=サカナ=魚=海神

 魚(イオ)国=倭国(ウオマ)=イオニヤ人

 倭・塞=オオサカ

 ポセイドンの国大阪

 百済・和泉 国


 ※出典:加治木義博・HIMIKO:184頁

 ”地名が物語る古代文明の波及”

 またこの式でいけば
 九州北部にある「日田(ヒタ)」も
 「日田人」と書けば
 「ヒッタイト」への当て字として使える。

 さきにお話した、
 三種の神器の一つである精巧な古代の神剣は、
 日本の鉄器時代の初めのものだけに、
 この人々のものであり、
 その象徴とみてもいい。

 またその人たちは全部、
 船に乗ってそれらの島々へきた。

 日本語の「フネ」という発音と、
 古代ギリシャとの関係は、

 その海軍の主力だった
 「フェニキア」と切り離しては考えられない。

 沖縄語ではその名は「フニチ国」になる。

 これは本土語に直せば
 「フナキ」船木という姓に一致する。

 またフニチ国を「船津国」と書けば、
 それが船の国という古語だと分かる。

 こうみてくると
 アレッサンドロス帝国の中にあった
 「カッパドキア」と、

 日本の「カッパ」という名もまた
 無関係だとはいいきれなくなる。

 ローマ法王をマグナ・カッパと呼ぶが、
 その頭は本当に「河童」のように丸く剃る。

 怪物としての河童は架空のもので、
 ここでは議論する対象ではないが、
 
 カソリックの儀礼や3世紀の卑弥呼の儀礼や、
 その起源であるシンドゥ教の最高神シバと、
 キリスト教の最高神のエホバが
 同じ神だということを考えれば、
 これもまた学問上、
 無視することはできない。

 日本語には

 「切れるか・切れないか」

 という言葉がある。

 これと語呂合せのできるギリシャ語がある。

 「キレナイカ」である。
 これは古代イタリア半島の国
 「キレニア」人をさす。

 この名は今もラテン化してチレニア海や、
 アルバニアの首都・チラナなどとして
 残っている。

 そして鹿児島にも
 「喜入」や「知覧」として
 残っているのである。


 ※出典:加治木義博・HIMIKO:199頁

 ”ロシア沿海州にいたギリシャ人”

 三種の神器の深い意味は
 紙数の関係で省略したが、
 倭人連邦の主力であった
 「ヤヴアナ人」とは何だったのか?

 これは省略することはできない。

 だがヒミコたちの人種構成が分かった今では、
 それは簡単に見つかるし、
 即座に承認できる問題である。

 それは後に
 日本全国に祭られた「八幡」なのだ。

 あらゆる角度から

 「八幡の語源を検討して、
  一致点のないものを消去していくと、
  あとに残るのは
  インド・サンスクリット語の
  「ヤヴァーナ」

 だけになる。

 これは「ギリシャ人」という意味である。

 しかしまだこれでも、
 3世紀の日本にギリシャ人がいたとは
 信じられない人のために、
 『魏書東夷章』に記録されている、
 高句麗よりさらに東北にあって
 大海(日本海)に面した国
 「挹婁=ユーロー」をご紹介しょう。

 そこは
 今のロシア沿海州なので「劇寒」なのに、
 夏は裸、冬はイノシシの脂を体に塗って、
 毛皮を着る、と書いてある。

 この国名でわかるとおり
 彼等は「ユーロピアン」であり、
 裸が日常だったのは、
 土器に描かれた風俗で証明される
 ギリシャ人独特のスタイルなのである。

 そして
 当時「ユーローパ」と呼ばれた地域は、
 地中海東岸にあった
 フェニキアから見て
 西の海の彼方の国のことだったのである。

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908




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