2019年3月17日日曜日

アベについて(5)

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アベについて

※出典:著者・加治木義博

 ◎大学院講義録26

 <秦王国は下関。
      俀(ダイ)国は四国以外にはありえない>抜粋

 ここで大学院講義録26で始めて
 確認できた五彩圏時代の我が国を、
 『隋書』を再読してもう一度振り返って見よう。

 煬帝(ヨウダイ)は608年に
 裴輩世清を我が国に派遣して
 八幡浜で俀王に会わせた。

 コースは
 都斯麻(対馬)国、
 一支(壱岐)国、
 竹斯(筑紫)国で、
 その東に秦王国があり、
 「竹斯より東は皆、俀国に附庸する」
 と書いている。

 秦王国以東が俀国の仲間で、
 それ以外は違うことを、
 わざわざ書いているのである。

 秦王国はシムノオ=シモノだから下関。

 そこから十余国経て達した海岸に上陸した。

 そこに俀王の迎え
 阿輩臺(アフ・トイ・阿部鳥)が
 儀杖を引き連れて出迎えたという。

 彼の船は博多から関門海峡を通って
 周防灘に入り、
 海岸伝いに 宇部・防府・徳山・光・上関・
 柳井・屋代島・中島・松山・伊予
   の十余国を経て、
 長浜(難ガ波国(ながはま))海岸へ
 上陸したのである。

 壱岐や下関が一国だった都市国家時代なのだ。

 裴世清の書く「国」は
 幕末の60余州のような大きなものではない。

 仮にそうだとすれば下関以後、
 これまで上陸海岸とされてきた
 大阪市の難波までは、
 周防・安芸・備後・備中・備前・播磨の
 6カ国しかない。

 幕末でも船旅の旅程は
 輩世清の時とほとんど変わらない。

 裴世清が訪れた俀国は、
 東西五月行、南北三月行の
 四国以外には存在しえない。

 近畿は東西南北同距離で、地形も違い、
 海も全くない奈良に俀国があったとは、
 空想することさえ難しい。

 ◎大学院講義録27

 <日本人の権威と誇りを踏みにじる
      マンガ本対策>抜粋

 ご覧の通り、
 寓話を史実と勘違いした昔の神官が、
 それを利用して建てた祠に、
 勿体づけに考案した由緒(ゆいしょ)を
 鵜呑みにして、
 大国主像を組み立てたものに過ぎない。

 本当の史実である国家の経倫を語る比喩は、
 完全にお伽話になり下がって、
 子供向きのマンガ本程度の
 幼稚さにまで下落してしまっている。

 これでは
 ラフカディオ・ハーンが紹介した
 明治以前の出雲観と少しも違わない。

 それを今になって権威ありげに出版物にして、
 欧米の蔑笑をさらに強めるというのは、
 全く時代をわきまえない
 反逆行為だというしかない。

 歴史をオモチャにするマンガ作家とともに、
 売れればいいという
 卑しい心理と倫理感の欠如が、
 我が国の子供たちの未来を
 真っ暗にしているのである。

 私たちはそれを傍観してはいられない。

 既に『記・紀』がどんな書物であり、
 その内容が
 高度の文明が生み出した知性の結晶であり、
 世界に誇るべき
 最高の理想を実現しようとする
 教科書だったことを確かめた。
 
 それを少しも速く
 国民の教養にするため積極的に行動して、
 正しい真の祖国観を、
 全国民の教養にまで
 高めなければならないのである。

 これについては本学の
 「安部忠宏」山陰支会長と、
 正会員・中庸学研究所長の宮川謙二先生とが、
 良い具体策をご検討になっている。

 なにとぞ諸先生方もご協力の程を、
 心からお願い申し上げたい。

 <安部氏が阿毎(アベ)前天皇=
      俀国(ダイこく)のダイコク様>・抜粋

 『日本書紀』は
 大化改新の敗者を蘇我入鹿だとしているが、
 その真相はもう御存知である。

 改新前には
 <ダイオウ>=俀王は愛媛県の宇和にいた。
 聖徳太子の<ウワノミヤ>=
 <上の宮>はそれを記録している。

 俀王の姓は「阿毎」だった。

 この毎の字の隋の発音は「ベ」で、
 沖縄語では「パィ」。

 <裴世清>の耳には
     「アベ」と聞こえたのである。

 ところが
 大隅語では毎は「マイ」、
 薩摩語では「メ」と発音するから
 「阿毎」は<アメ>。

 天を<アメ>と読ませる
 『日本書紀』は
 薩摩語で書かれていることがわかる。

 『記・紀』に登場する「天」の名乗りは、
 『隋書』が書く通り皇族を示す名乗りである。

 <安部>・<阿部>と書く当て字は
 <裴世清>が聞いた発音通りである。
 いま出雲におられる安部さんたちは、
 まぎれもなく
 俀国様=<大国主>の尊の直系で本家なのだ。

 『三国史記』は入鹿を泉蓋蘇文と書く。

 泉は出水(イズン)、
 それが島根県へ行ったから
 出雲(イズン)という国名が生まれたのである。

 生きていた入鹿が出雲へ移った
   <大国主>なのだ。

 これが『日本書紀』の書く『国譲り』の中核。

 最も書きたくて、
 しかも書けなかった史実の真相なのである。

 だから天智天皇は入鹿を殺していない。

 彼は建国以来の天皇憲章を守っている。

 <泉蓋蘇文は高句麗の支配者>で
 <天智天皇は日本国十半島新羅の支配者>
   である。

 <斉明天皇は倭国の支配者>で
 山奥の飛鳥に逃げていた。

 これが
 「倭国と日本」統一直前の
 真実の婆だったのである。

 ◎大学院講義録40

 <中国統一の礎を築いたのも我が国の同祖>抜粋

 また倭人や馬韓や辰韓が入っている
 「東夷」も烏丸同様、地名や姓になっている。

 東井・藤井・藤居・筒井・遠井・稲井
 などがそれで、
 フジイやツツイ、イナイと
   読み方を変えたものも、
 これを見ると、
 本来は東夷に対する当て字だったことがわかる。

 居住地に「スク」 という宿名を残した
 チュクチ族は筑紫族。

 いま北シベリア最大の港湾都市に、
 そのまま「チクシ」の名を残している。

 筑紫は九州最大の古代先進国で、
 継体天皇に破れた磐井も
 祝氏=シュクシ=チクシで赤の他人ではない。

 今なお地名、姓とも健在であるが、
 天智天皇が阿部比羅夫当時、
 征伐した記事が『日本書紀』にあるから、
 そのとき北方への大移動があったのである。

 そんな事件は別にして。

 これらの姓をもつ方々をいま、
 日本人ではないと思う人はないように、

 神名になった人たちの国名も
 我が国から移動していった人々のもので
 血縁に変わりはない。

 みな我が国のクシャトリヤ=天皇=軍君であり、
 イサナキの尊たちだったのである。

 彼等は古くは殷商帝国から建国して行き、
 中国を治めてきたのである。

 だからその血縁を証明する一章が、
 「倭人章」に特記されているのは見落とせない。

 「其俗 挙事行来 有所云為 
  灼骨而ト 以占吉凶」

 倭人は、
 何かを行う時には獣の骨を焼いて
 罅(ひび)割れの様子を見て吉凶を占う。

 これは「令亀の法のようだ」という記事である。

 ◎篤姫を生んだ鹿児島こそ
  スメル八千年帝国の理想郷だった

 <なぜ日本の涯の田舎娘が大御臺所にまで>抜粋

 西郷隆盛の実像は
 一般に想像されているものとはずいぶん違う。

 ことに「征韓論」で
 侵略主義者の汚名を着せられていることは、
 あまりにも事実と違い過ぎて、
 必ず是正して名誉挽回を計らねばならない。

 私(加治木義博)は
 それを周囲から詳しく聞かされて育ったので、
 誰よりよく知っている。

 機会をつくって必ず書こうと思っていた。

 宮尾さんは鹿児島まで足を運び
 資料を整えて書いておられるが、
 斉彬なきあと、由羅派が絶対的な力をもち、
 嶋津久光が事実上、家長になったために、
 斉彬派の重要な史料は、大半が失われてしまい、
 資料館などに保存されている遺物は大きく偏り、
 多くの事実がわからなかったとみるしかない。

 そのせいか、
 ドラマ前半の準主役ともいうべき
 肝付(きもつき)尚五郎=
 小松帯刀(たてわき)も、
 原著には全く登場しない。

 しかし、
 私(加治木義博)は
 この本で原作者やドラマの脚色を
 責めようとは思わない。

 嶋津家の子孫も不明になっている現在、
 面倒な歴史を小説化し、
 またあれだけ面白く展開して、
 すごい数の視聴者を集めたのは、
 さすがに宮尾先生であり、
 大NHKのスタッフだと激賞したい。
 人の一生が見えると、
 それと比べて自分の一生も考える。

 歴史の鮮やかな祖先がいると、
 批判もし、反省もする。

 それを記憶が確かな今、
 真実を知りたい方々のために
 書いておこうと思った。

 それは、お家騒動のために抹消された、
 一般には未知の人たちと史実に満ちている。

 例えば、篤姫輿入れを実現させた
 老中・阿部正弘と斉彬の、
 さらに深い交わりも詳細に
 我が家に伝わっているし、
 よく知られているはずの
 西郷隆盛の実話でも面白いものが、
 まだまだたくさんある。

 鹿児島には、さらに幕末だけでなく、
 卑弥呼以前からの意外で巨大な歴史と、
 古代天皇家の史実が充満している。

 <一気に解けた、謎の天皇家の出身>抜粋

 今、
 この「大人・弥五郎」そっくりの行事が、
 インドのヒンヅウ(シンドウ)教徒たちによって
 花々しく、
 盛大な年中行事として行なわれているから、
 これまでの考え方では、
 それが我が国に伝えられたものだと思いがちである。

 しかし我が国の景行天皇は卑弥呼の時代、
 3世紀の人で、
 ヒンヅウ教は圧倒的に
   強力な仏教に対抗するため、
 9世紀に多教派が合同して、
 仏教の行事などを真似て、
 いま見るような行事を行なうようになったので、
 大隅のほうがずっと先である。

 式の終りに大神像を焼くが、
 それは「大神を討つ」ことだから、
 弥五郎を「討った」という解釈に合う。

 これは大隅で
 「ウッタラ」という人名を「討った」
 と間違えたものを、
 そのまま真似たことになり、
 大隅からインドへ伝わった可能性が極めて高い。

 それが盛大に行なわれる
 インドのビハールという州名は、
 我が国ではミハルに変わるから三春。

 この地名は福島県の南部にあり、
 近くには安達太良(アダタラ)山がある。

 本州では
 「ウッタラ」は[だいたらぼっち」になるから
 「達太良(ダタラ)」は
  そのダイタラから変化した
 名だとしか考えられないし、
 「安」は阿部の阿で、本来は「オ」で、
 ウッタラの「ウ」に一致している。

 このように、
 すべてがウッタラの影響を裏書きしている。

 それが、まさか、
 景行天皇だ、などとは
 誰も想像すら出来ずにいたが、
 それがインドに逆輸出されて、
 今も続く一大行事の主役になっていたのである。

 それは、
 アソカ王の所へ往復したウッタラやソナカや、
 その臣下たちが運んだものだったのだ。

 だから彼等は、
 もちろん我が国にも大量の遺物を残したし、
 そのまま我が国に住み着き
 今の日本人の先祖にもなった。

 それは今もなお、姓や地名になって残っている。

 彼らの祖国はマガダ国(ニア)だが、
 鹿児島にはそのまま
 マガダと読める「曲田」姓があるし、
 その記念すべきアソカ王の名は、
 九州にある世界最大のカルデラをもつ火山、
 阿蘇の名として永遠に残した。

 阿蘇火山という文字は、
 そのまま「アソカさん」なのである。

 また彼等が開いた奈良の仏教の古都・
 飛鳥(あすか)もアソカの訛りであり、
 北九州の豪族・麻生氏も
 アソ=阿蘇でその子孫であることは疑いない。

 <暗殺事件ではなかった虎寿丸の葬儀>抜粋

 それを聞いた斉彬は、
 それまでも次々に幼児が死ぬのを、
 何とも思わなかったわけではなかった。

 気がつかなかったとすれば、
 もっと大切なことに没頭していたためだが、
 気がつかないような暗愚ではなかった。

 男の子ばかり死んで女の子は残ったことに、
 早くから気付いていて、
 別に跡継ぎが欲しいわけではないが、
 救えるものは救ってやろうと考え、
 それとなく奥に命じて、毒味を厳重にさせ、
 子供茶碗などの食器は、
 毎回、厳重に消毒してから使用し、
 外部の者は触れられないようにさせていた。

 だから鳥越の訴えを眼を閉じて聞きながら、
 徹底した方策を考えていた。

 聞き終わった斉彬は即座に、
 そちは虎が死んだと報告し、
 いずれかへかくまって、
 病気を治してやってくれ。
 行く先は余が段取りするから、
 西郷と相談して即座に実行せよ、
 とすぐ西郷を召されてお申しつけになり、
 その夜のうちに、
 数名の武士が密かに虎寿丸をつれ出したあと、
 供は鳥越御典医ただ一人とし、
 鳥越の小者ばかり数名が
 商人風に姿をかえて籠で東海道を下り、
 斉彬が指示した
 福山(広島県福山市)へ向かった。

 それは嶋津の家中では
 誰が信用を置けるか不明で、
 漏れる恐れがあるので、親友であり、
 同志である老中首席の
 阿部正弘に頼む他ないと考えたからだった。

 序文で申し上げた
 阿部老中との秘められた特別な親交というのは、
 この虎寿丸救出成功にみる、
 歴史の表面には
 現れない男と男の友情があったことを言い、
 そのお陰で、
 私(加治木義博)も今、
 こうして皆様にお話できるのだと痛感している。

 けれども阿部老中もさらに用心深く、
 斉彬と親しい自分が手を貸したのではないかと、
 眼をつけられて薮蛇になることまで考え、
 万全を期するために、福山には滞在させずに、
 隣接する備後・笠岡に鳥越を落ち着かせた。
 (備後という名乗りは、これによる)

 これが薩摩隼人である鳥越家が
 笠岡人である理由なのだというお話で、
 だから鳥越家には今も、
 嶋津家の家紋がはいった
 色々な道具が残っているのだといって、
 ここに掲載した写真などを見せていただいた。

 こうして虎寿丸は安政二年七月二十四日、
 満六歳で死亡、として葬儀が行なわれた。

 彼がそのとき死ななかったという証拠は、
 まず、今も残る幼児用の椀である。

 彼以後に生まれた三人の妹たちは
 皆元気で成人して、
 手紙など多数が残っているが、
 彼以前の兄弟は、
 六人とも満三歳までに死んで、
 子供用の食器は必要がなかった。

 虎寿丸ひとりだけが六歳になって、
 座って一人で食事ができたのである。

 だから批素などを塗り込めた
 毒殺用の椀を警戒して、
 斉彬が作らせた子供用の椀はこれ以外にはない。

 それは今、
 私(加治木義博)の手許にあるのだから、
 それ以後、転々とした隠れ家で使われて、
 記念のために保存されていたもので、
 それ以外には残っているはずがない。

 その後、虎寿丸は転々と移転を繰り返して
 久光派の魔手を逃れて行ったが、
 鳥越医師は
 阿部老中が辞任して福山へ帰ったあと、
 体調を崩した末期患者に名医の腕で仕えて、
 その最後を診とって恩に報いた。

 その時、福山の高名な観光地
 鞆の浦にある神社の森下宮司と親交が生まれ、
 のちに宮司が大阪に家伝の名薬
 『仁丹』の会社を設立して成功を収めたのにも
 大いに協力したといい、
 また私の父の遠縁にあたる
 森下博が養子に迎えられて社長になり、
 成功を収めたのも、
 虎寿丸が森下家と深く関わっていた
 縁(ゆか)りである。

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908

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