2019年3月17日日曜日

アベについて(2)

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アベについて

※出典:著者・加治木義博

 ◎WAJIN

 <ワジン関連年表>抜粋

  452 蠕蠕王・吐賀真、
      北魏に敗れて逃亡する。

  465 和平五年。蠕蠕王・吐賀真死ぬ。

  465 ?倭王・興死に、弟・武立つ。

  478 倭王・武、宋に遣使、上表する。

  502 梁の高祖即位し、
      倭王・武を征東将軍にする。

  520 蠕蠕の醜奴(シュウド)可干、
      母に殺される。

      6世紀の中ごろ、
      柔然(蠕蠕)のアヴアール族、
      ドイツ北部を支配する。

  581 隋、建国。

  608 隋・大業三年、隋の文林郎・裴世清、
      俀国へくる。
      日本の推古一六年。

  628 隋滅び、唐建国。

  645 三蔵法師、インドから唐へ帰国。

  645 大化改新(乙巳の変)。

  660 阿倍比羅夫、粛真を討つ。
      唐と新羅の連合軍、百済を攻める。

  663 白村江の敗戦で百済滅ぶ。

  670 倭国、国号を「日本国」に変える。

  672 壬申の乱
      弘文天皇殺され、天武天皇即位。

  681 浄御原令(きょみはらりょう)
      律令制定。
      このとき陰陽寮を設置したとされる。

  764 淡海三船、天皇の漢風諡号を作る。

  950 このころから陰陽博士をおき、
      安倍と賀茂の二家をこれに当てる。

 1271 中国・元、建国。

 1368 中国・元滅び、明、建国。

 1441 島津忠国、
      琉球を所領に加えられるが
      統治せず放置しておく。

 1500 琉球・八重山の英雄
                  ウヤキ・アカハチ、
      琉球王朝に反抗して死ぬ。

 1609 島津氏、
      徳川家康が
                  対明貿易の拠点にするため、
      督促されて琉球統治開始。

 1616 女真のヌルハチ、中国・満州地区に
      金(後金)国を建国。

 1636 後金国、清シン(チン)と改名する。

 1661 中国・明、清に滅ぼされて、
                  清朝始まる。

 ◎TAIKA

 <巨悪・入鹿の哀れな最期>抜粋

 味方がいないことを知った蝦夷は、
 これまで賄賂(わいろ)を取っては
   積み貯めてきた、
 たくさんの珍しい宝物などとともに
 『天皇記』と『国記』も焼き捨てた。

 しかし
 船史恵尺(ふなのふびとえさか)が
 『国記』の燃え残りを見つけて
   中大兄にさしあげた。

 その日、
 蝦夷父子の遺体を墓に葬ることを許した。

 皇極天皇は、その事件で考えるところがあって、
 その翌日退位して、
 軽の皇子に位を譲った。

 そして中大兄を立てて皇太子とした。

 これは理由がある。

 『日本書記』巻二十五
 [天萬豊日天皇
  (あめよろずとよひのすめらみこと)
  (孝徳天皇)]には、

 「この天皇は皇極天皇の弟で、
  仏の教えを尊んで神道を軽んじた。
  ……皇極天皇は息子の中大兄に
  『そなたに位を譲ろう』といったが、
  中大兄は鎌子に相談した。

  鎌子は答えた。
 
 『古人さんはあなたのお兄さん、
  軽の皇子は叔父さんです。
  だから兄さんや叔父さんを後回しにしては
  人の道にはずれていると
  国民が悪くいうでしょう。
  叔父さんを立てるのが順序です』

  そのとおり天皇に返事すると、
  それならと軽の皇子に
      三種の神器を譲られたが、
  皇子も遠慮して古人に譲ろうとする。

  すると古人は
  『私は出家して仏の道で天皇をお守りする』
  といって法興寺に入ってしまった。

  そこでやむなく軽の皇子が天皇になり、
  中大兄を皇太子に、
  阿部内摩呂を左大臣、
  蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、
  鎌子には大錦冠を授けて
  内臣(うちのおみ)にした」とある。

 このあと、
 次第に本格的な
 「改新=法制と行政の改革」が行われる。

 これが
   「大化改新」の「あらすじ」の部分である。

 <『日本書紀』の編集は「焚書」の日本版>抜粋

 「倭人豪族の記録没収」

 『日本書紀』(持統天皇五年八月〕

 天皇は旧倭人十八氏がもっている記録一切を、
 強制的に提出させて全部没収
 『日本書紀』だけ残した。

 敗北者は
 大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、
 謄部、春日、上毛野、大伴、紀、
 阿部、佐伯、釆女、穂積、阿曇、平群、羽田の
 十八氏である。

 これで
 倭人の奈良負け残り組の顔ぶれが
   はっきりわかる。

 『日本書紀』

 詔十八氏
 【大三輪。雀部。石上。藤原。石川。巨勢。
  謄部。春日。上毛野。大伴。紀、阿部。佐伯。
 釆女。穂積。阿曇。平群。羽田。】
 上進祖等纂記。

 <五彩圏連邦皇帝は合議で選出された>抜粋

 ではそれだけの支配圏をもった皇帝は
 どんなふうに選ばれたのであろう?
 『日本書紀』は次のように書いている。

 前の天皇が死んだとき大臣は蘇我蝦夷だった。

 彼は自分の思うとおりに
 次の天皇を決めようと思った。

 だが群臣が賛成しない場合を考えて、
 阿倍麻呂の臣と相談して、
 蝦夷の家へ群臣を招いて宴会を開いた。

 そして阿倍の臣にこういわせる。

 「次の天皇が決まらないままにしておいては
  争いのもとだ。急いで決めねばならない。
  先の天皇がお倒れになったとき、
  田村皇子に『大任については
  安易に口にできないが、
  お前は慎んで察して、
  怠けることのないように……』といわれ、
  次に山背の大兄王に
  『お前は独断で騒がないように、
   必ず群臣のいうことに慎んで従え』
  とおっしゃった。

  これが前天皇の遺言なのだ。
  誰を天皇にするのがいいと思うか……」。

 この状況を見てわかることは、
 天皇という地位
 (正確には連邦の皇帝か大統領にあたる)は、
 一応、群臣の選挙によって決められた、
 ということである。

 これは宴会の席上であって、
 形式は今の議会とは異なるが、
 定数の議員が討議して決める
 「合議制」のその本質は全く同じで、
 何ら変わったところはない。

 これが舒明天皇選出当時の、
 皇帝選出議会の実況なのだ。

 合議制による選出、
 これがその時の連邦皇帝の選任方法だった。

 これはヒミコの場合と変わっていない。

 では選んだほうの議員は
   どんな顔ぶれだったのか。

 登場順にあげてみよう。


  (名乗り)     (称号)    (地位)(国籍) (所轄都府県)

 蘇我蝦夷       大臣(おおおみ) 王子 俀国?倭国? 愛媛?奈良?

 阿倍麻呂        臣       王 俀国     

 高向宇摩(コムカウマ)  臣       王 高句麗    朝鮮半島

 中臣弥(ミ)気      連      知事 那珂・奴国  福岡

 難波身刺(ムサシ)   吉士(きし)   総督 難波・武蔵国 東京

 采女(ウネメ)摩礼志   臣       王 倭国     奈良

 大伴 鯨        連      知事 倭国・百済  朝鮮半島

 許勢大摩呂       臣       王 土佐・阿波  高知・徳島

 佐伯東人        連      知事 新羅     大分

 紀 塩手        臣       王 紀伊     和歌山

 蘇我倉麻呂       臣       王 高麗     広島

 <インド出身を示す「天」の名乗り>抜粋

 舒明天皇の名乗りが、
 『隋書』の俀王と同じ「タリシホコ」
 という名乗りをもっていたのは先にみた。

 今その幼名が「天孫」だったのをみると、
 俀王の「姓」が阿毎だと書かれていたのと
 さらに重なる。

 あの阿毎は間違いなく
 天孫の「天(あめ)」だったのだ。

 ところが舒明天皇の名乗りは
 阿毎ではなく「息長=ソナカ」だ。

 この違いは、
 彼が本当に連邦の皇帝に
 選出されたことを裏書きしている。

 そうでなければ、
 彼は死ぬまで
 「アメ・タリシホコ」のままだったのである。

 阿毎はまた、阿輩とも書かれていた。
 これは阿倍、阿部、安倍と書かれた
 氏族とも語源は同じで、

 それは
 「ウワイ=倭」の大隅方言である
  オワイに対する当て字であることも、
 『コフン』で説明したとおりである。

 では「天宗」とはどういう意味だろう?

 天の字の発音は
 テン、ティン、チン、チヌなどと変わり、
 そのチンは沖縄語では
 「金、絹、木の」と同じ発音になるし、
 シンもやはりチンと発音する。

 また「宗」は「ソウ」ではなくて
 「ズー」と発音される。

 だから天宗は「シンズー」であって、
 インドを意味する名詞と同じ発音になる。
 
 これもまたソナカと同じく、
 彼らがインドから来た
 アショカ仏教宣布団の、
 後継者だったことを示す名詞なのである。

 <もう一つある天智天皇の名乗り>抜粋

 では天智天皇は
 どこから大阪へ攻めてきたのだろう?

 そのころ
 新羅は朝鮮半島にあったと思われるから、
 彼は朝鮮半島からやってきたのだろうか?

 だがそうだとすると、
 鹿児島出身というのはどうなるのだろう?

 かりに鹿児島からでないとすると、
 日本という国号は
   どういうことになるのだろうか?

 実はこれについても、
 実に詳しい記録が『日本書紀』に載っている。

 しかもそれはもう一つ、
 天智天皇に別名があったことを
 教えてくれるのである。

 その別名とは「阿倍比羅夫」である。
 これとこれまでみた名乗りとを比較してみよう。

 「阿倍」は
 『隋書」の俀(だい)王の姓で当て字「阿毎」。

 これは
 「アメ=天」でもあることを先にもお話しした。

 「比羅」はもう何度も出てきた
 「ヒラ=シラ」で、新羅のこと。

 「夫」は<オ>で、
   次のように比べてみると
   「王」の位置にくるから、
 その王から変わった当て字である。

  天   命   開   別 天智天皇の名乗り
  金      春 秋  王 新羅王の名乗り
 阿 倍     比 羅  夫
         新 羅  王

 <阿倍比羅夫の「粛慎」征伐>抜粋

 これでわかるように、
 彼を一将軍・阿倍比羅夫として
 記録したものも実在した。

 『日本書紀』編集者は、

 天智天皇の記録を
 阿倍比羅夫という
 仮空の存在のものにするために
 あらゆる手を加えて変型させた。

 なぜそれがわかるか。

 それは古代の記録なら間違えても仕方がないが、
 この事件は『日本書紀』が書かれた当時、

 まだその登場者も、それを見聞きした国民も、
 ほとんどが生きていた当時の事件で、
 同時記録といってもいいものだからである。

 そして『日本書紀』編集にあたった連中も、
 天智天皇の実物を知っていた
 可能性のある官吏たちなのだ。

 その連中が、これまで見てきたように、
 天智天皇本人とはまるで別人のような、
 幾人もの人物にしてしまっているのは、
 真相を知っていたからこそ、
 それを
 できるだけ別の事件や人物に見えるように、
 智恵をしぼって書き変えたのである。

 『日本書紀』はどんなふうに書いているか、
 それを要約して見てみよう。

 *[斉明天皇四年四月]阿倍臣
  (名を欠く=割り注)が
  船師180艘をひきいて蝦夷を討つ。
  「鰐田(あぎた)」「淳代(じゅんだい)」
  二郡の蝦夷を降参させると、
   蝦夷の王「恩荷」が
 「決して反抗しません。
  清い心でお仕えします」と誓う。
  そこで恩荷に官位を与え、
  淳代・津軽二郡の郡領に任命した。
  そのあと有間(ありま)浜に
  渡島(としま)の蝦夷を召集して大宴会を開いた。
  同年、粛慎(しゅくしん)を討ち、
  生罷(いきひぐま)2、
  罷熊皮70枚を献じた。*

 前の部分では
 ご覧のように「名を欠く」
 と割り注までしているが、
 その粛慎を討った記事では
 次のようにフルネームを書いているので、
 それが阿倍比羅夫だったとわかる。

 *「この歳(とし)、越国守・阿倍引田臣比羅夫、
   粛慎を討ち、生罷2、罷熊皮70枚を献じた。*

 ところがおかしいこと
 翌[斉明天皇五年正月]のところにまた

 *「この月、阿倍臣(名を欠く)を派遣して、
   船師180艘をひきいて蝦夷国を討つ。
   阿倍臣「飽田(あきた)」「淳代」二郡の
   蝦夷241人、その捕虜31人」*

 などを集めて宴会を開き、禄をあたえた、
 という記事がある。
 ところがまたその翌年の
 [斉明天皇六年三月]の部分にも、

 *「阿倍臣(名を欠く)を派遣して、
   船師200艘をひきいて粛慎国を伐つ」*
 と書いている。
 
 同じ事件なのに、
 こんなふうにまるで別の事件として
 年月を変えて「水増し」している。
 だから『日本書紀』の「年月=時間帯記事」は、
 ぜんぜん信じられない。

 それ以上に、
 この「粛慎国」は
 ヒミコ当時の3世紀に
 鴨緑江(おうりょくこう)の北東にあったが、
 その後は消滅してしまった国で、
 7世紀に実在するはずがない。
 また飽田を秋田に、
 淳代を能代(のしろ)に当てて
 東北地方の地名だというのが
 過去の学者の説明だったが、
 飽田は熊本県の飽託郡(ほうたくぐん)の
 もとになった地名で、
 淳代は能代より
 「ジュンダイ=ジャムダイ=邪馬臺」のほうに、
 より近い。

 <絶対にありえない東北地方への遠征>抜粋

 この阿倍比羅夫の蝦夷と粛慎征伐を、
 かりに従来の説のように
 東北地方のアイヌ人を討ったものだとすると
 大きな疑問が生まれる。

 それは当時は
 百済と倭国軍が唐と新羅の大軍に攻められて、
 死闘を繰り返したあげく
 ついに全滅し百済が滅亡した、
 まさにその時だからである。

 次は北九州が襲われるに決っている。

 そのために
 斉明天皇自身が女性の身で
 福岡まで出かけたというそんな時期に……
 ロシアの沿海州や東北地方へ、
 敵でも反乱者でもない人々を、

 なぜ、
 大軍をひきいて征伐にいく
   必要があるのだろうか?

 自分たちの国が危ないという時に、
 その防衛は捨てておいて、方角違いへ、
 それも二種類の敵をわざわざ作って、
 大軍を送るというような
 バカげた行為は子供でもしない。

 それを本当にアイヌ征伐だと信じて、
 そう教えてきた連中の頭の程度が、
 はっきりわかると思う。

 そんなことさえ理解できなかったのは、
 筑紫がチュクチやツングースと同じ名詞で、
 東胡や粛慎と呼ばれた人々の国だった事実に、
 全然無知だったためである。

 だからこそ
 私(加治木義博)は、
 前巻『ワジン』をこの大化改新(乙巳の変)
 の序曲として書き、
 当時の東アジアのそうした真実の状況を
 前もってお話ししておいたのである。

 そうでなければあなたもまた、
 古い頭の先生方と同じことを信じて、
 真実を見る能力を
 自分で捨ててしまわれたかも知れないからだ。

 <「粛慎」と「筑紫」は同じもの>抜粋

 しかし私たちには、
 この阿倍比羅夫の正体がわかっているから、
 この記事が別に正確な年月のものでもなく、
 どれも同じ一つの事件を、
 いかにも
 毎年のように
   東北平定にでかけた出来事のように、
 見せかけてあるだけだと知っている。

 そしてその事件そ外ものが、
 神武東征や天智天皇の東征や、
 金春秋の戦争と同じものだとわかっている。

 それが他の記事ではどの部分の何にあたるか、
 検討してみよう。

 これは降伏した王の名が
 「オカ(恩荷)」と読めるので、
 神武天皇のところへ混じりこんだ、
 東征の始めの部分とよく似ている。

 *『古事記』[神武天皇記]
  「日向を出発した神武天皇は
  筑紫の岡田宮に一年滞在する」*

 *『日本書紀』[仲哀天皇八年正月]
  「筑紫の同県主の祖・熊鰐(わに)が
   土地を献上した」*

 この仲哀天皇は、
 邪馬壹(いち)国の女王壹與(いちよ)である
 神功皇后の夫だから垂仁天皇で、
 結局、
 神武天皇記事の主要部分の主人公である。

 ここで一番大切なのは
 「粛慎」と「筑紫」が合う事実である。

 この二つがもとは同じもので、
 いま「チュクチ・ツングース」などと呼ぶ
 集団名や地名と同じものであったことは、
 今もお話ししたとおり前巻の
 「ワジン」で詳しく説明しておいた。

 こうして比較してみると
 「粛慎征伐」とは何だったかが、
 とてもはっきりみえてくる。

 <まず九州を支配した天智天皇>抜粋

 だがここでは
 それらの皇居がどこにあったかはどうでもいい。

 重要なのは
 斉明天皇が最後の朝倉宮で
   さまざまな怪異に遭い、
 近臣がぞくぞくと死んだと
   書いてあることである。

 皇居を建てる材木として、
 そこにあった神社の神木を切ったところ、
 神の怒りにふれて宮殿が崩壊し、
 夜な夜な宮中に鬼火が現れ、大舎人以下、
 多くの近侍が次々に病死した。

 これは
 天皇が仏教徒の教主「倭女王」だったことを
 忘れると、ただの怪談にすぎなくなるが、
 この時の争いが「神道の日本」との戦いで、
 それに敗れたという事実を知っていると、
 それは怪談に作り変えられてはいるが、
 実際は
 倭国朝廷滅亡時の悲惨な
 政権全滅の様相を説話化して、
 むしろ
   「やわらげようとした」ものだったことが、
 おわかりになると思う。

 この朝倉宮は
 福岡県の朝倉郡にあったことになっている。

 この福岡は
 神武天皇または仲哀天皇としての天智天皇が
 「岡の県主(あがたぬし)」から領土を奪い、
 一年間滞在したことになっている土地である。

 この県主と斉明天皇を比べてみると、
 天皇は「岡本宮天皇」という呼び名で
 呼ばれている。

 だからこの県主はそれを省略して
 「岡の町長」程度に落として
 表現したものなのである。

 従来はその時、
 天智天皇は皇太子として
 斉明天皇と同行していたと信じこまれていた。

 しかし真相は
 新羅王・金春秋だったのだから
 「倭女王」斉明天皇を滅ぼした当人である。

 同行していた皇太子であるはずがない。
 それどころか
 彼は敵の占領軍の指揮者だったのである。

 それが事実だということを、
 はっきり立証しているのは『統日本紀』である。

 この記録は797年に完成した
 日本の『正史』だから、
 『日本書紀』ほど、でたらめではない。

 その[養老四年正月]の部分に
 「阿倍比羅夫=天智天皇」のことが
 次のように書いてある。

 *「大納言・正三位宿奈麻呂は、
   後岡本朝の筑紫太宰帥・大錦上・
   比羅夫の子なり」*

 天智天皇は、
 間違いなく福岡にいて九州を支配していた、
 という事実を裏書きしている。

 念を入れて、
 これまでわかったことをおさらいしてみよう。

 M.K記(責)

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